【おしゃれクリップ】俳優・阿部寛さん「モデルから俳優へ…直談判で掴んだ3秒の出演」(2025年6月22日放送)

山崎育三郎「そもそも役とかはどうやって決めてるんですか?作品も含め」

阿部寛
「あ、もうでもね。(オファーが)来た役はほぼやらしていただいてますよ。
いただく役って「えっ!これ俺やるの!?」みたいなのとかあるじゃないですか。
まあ、いい例で言ったら、(映画)「テルマエ・ロマエ」ですね。
「ねえ、これって外国の方がやんなきゃダメじゃないの?どうやるんですか?」とか。
監督打ち合わせの時に「ブルーコンタクトしましょうか?」とか「カツラとか用意しといてください」って言って、全部つけたけどダメなんですよ。
で、全部とったら、「それでいきましょう!」って」(笑)

 

メンズノンノのモデルがデビュー

姉が応募し、読者投票で1位に

そんな阿部寛のデビューは40年前。

山崎育三郎「いげちゃん知ってた?阿部さんメンズノンノのモデルしてたの」

井桁弘恵「しらなかったです」

阿部寛
読者投票で選ばれたら、車(ファミリア)がもらえるっていうなんかその…そういう企画があったの。
姉が出してくれて。それで、1等賞をとって

山崎育三郎「あ、お姉さんが出した?車はそれで貰ったんですか?」

阿部寛
「貰ったんですよ。いや、それは自分で乗りましたけど(笑)
クーラーつけないでね。お金ないから。クーラーとかそういうのはオプションだから。当時まだつけられないから」

山崎育三郎「学生だから。でも周りもちょっとざわつくじゃないですか?」

阿部寛
「そう。学校の友達とかはもう「いけいけ!」みたいな感じで応援してくれたけども。
自分プロのモデルじゃないのに、表紙とかやってるから。
自分でもちょっとよく分からないような状態で、ずっとやってましたけどね」

山崎育三郎
「同世代にとってもスターになるわけじゃないですか、一気にガーッと。環境変ったんじゃないですか?」

阿部寛「環境は変わりましたね。あのーモデルの友達とかもできたし」

井桁弘恵「結構私生活はイケイケでした?」

阿部寛
「まあ当時ディスコとか色々あるじゃないですか。
そういうのにまあ、先輩方に連れて行ってもらったりとかして。
すげぇな、面白いな、こういう世界あるんだな。
毎週金曜日に集まったりとか。そういうのはあったけど。
でもそこまでなんかそこにのめり込むってことは、僕はなかったですかね」

山崎育三郎「踊るんですか?」

阿部寛「踊りダメなんですよ。踊りダメなの。
まあ、見に行って。その仲間たちがいるから、そこにのってっていう」

 

40年来の友人…俳優・加藤雅也さんにインタビュー

俳優加藤雅也さん
メンズノンノ時代から阿部さんを良く知る40年来の友人

出会った時の印象は?

加藤雅也
「そのメンズノンノのまあ、メインのモデルってなった時に。
まあ、髪の毛をちゃんと切るっていうことで、その指定されたところに2人がその集英社の方たちと行って。髪の毛切って、話したのが初めてですね。
もうホントに、ぼくとつとした青年、大学生って感じですよ」

いち学生から、一躍メンズノンノモデルというスターに。
ちなみにどっちがモテた?

加藤雅也
「それは阿部くんでしょ!やっぱり彼の方がこう顔に優しさがあんじゃないの?
オイラの方がなんか怖さがあるっていうみたいなのがあるから。
創刊号の時も、あのーまあ阿部くんと風間トオルの2トップで出て。
もう大人気のその風間君とやってるわけだから。
メンズノンノはやっぱり彼(阿部くん)はあのーメインで、やっぱり一番リーダーみたいな感じですからね」

当時21歳と22歳。デビューから知る数少ない戦友

加藤雅也
「結婚発表する前に僕は聞いてたから。
こうで、こうで、どうしたらいい?って言うから。
こう俺の経験はこうだったっていう話をして。今だから言うけど」

阿部寛
「加藤さんはもう1年か2年(早く)、もうプロの事務所入ってやられてたんですよ。
僕はもう素人ですよ。どこの事務所も入ってなくて
もうアルバイトみたいな感じでやらしていただいてて。
もう何も知らないから。「どうやればいいんですか?」って聞いて。
そしたら(加藤さんが)「ポケットに手突っ込んでみろ」とか。
もう兄貴みたいな、もうホントに。
(加藤さんが)学校の先生を目指してたから。教えたがりっていうのがすごくあって。
スゴイちゃんと教えてくれて、面倒見よくて」

山崎育三郎「なんか結婚前もご相談されたみたいな」

阿部寛「そう。もう一番信頼してますね。加藤さんは。もう口堅いし」

井桁弘恵「その結婚の相談した内容も覚えてますか?」

阿部寛
「僕より1年半くらい前に加藤さん結婚なさって。
「どういう風な感じで発表するの?」とかね。発表の仕方とか。「どうした?」とかそういうの相談したりとか。
「どこで(結婚式)やった?」とか。式とかどこでやったとか。
どうするの?みたいなの全部相談して。絶対この人は言わないから。うん。口堅いし」

井桁弘恵
「私のお父さんにすっごい似てるんです。
で、年齢も一緒で、大学(中央大学)も一緒で。
ずっとだから、父だと思って(笑)」

阿部寛「結構ね。俺に親父が似てるって人多いんだよね。3人ぐらい言われた」

 

俳優の道へ

就職活動中に映画「はいからさんが通る」の話が来て…

メンズノンノモデルになってから2年後、周囲の後押しもあり、図らずも俳優の道へ…

阿部寛
「当時は(モデルを)プロでやってこうと思わないで。
あの、(大学)4年になったら就職活動しようと思って、就職活動実際してたんですよ。
色んなとこ(会社)行って。落ちたりもして。で、就活してて。

それと同時に、(大学4年の)7月ぐらいになったら、まあ映画の話が来て
それがまあ「はいからさんが通る」の映画なんだけど。

「僕全然芝居なんかできませんよ」って。「できないけど大丈夫ですか?」って言ったら、監督が「僕が教えるから」って言ってくださったんですよね。佐藤(雅道)監督っていう方が。

それでもう就職ある程度内定近い所まで行ってたから、迷うじゃないですか。
ほんで、8月になって、じゃあ一か八か。まあ試してみよう」と思って、こっちの世界に入ってきたという」

 

2~3年で仕事が減り始め…「あの人は今」からオファーがきて気づいた

23歳でモデルから俳優へ。脚光を浴びたのもつかの間、苦労時代が。

山崎育三郎「役者業は順調にどんどん仕事が決まっていくわけですか?」

阿部寛
「いや。やっぱり、なんだろう最初はそのモデルの人気っていうか、時代に乗ったっていうのがあるからこう(上がって)は行ったんですけど。
やっぱりそんな甘い世界じゃないんで。
次にどんどんどんどん新しい人が出てきたら、乗り換えらえるから。
もうあっという間でしたよね。

(俳優デビューから)2年、3年したら、もうなんかそのさっきあったけど、「あの人は今」じゃないけど。
そういうのに写真貸してくれって事務所が言われましたっていうまで、全然」

山崎育三郎「それ何歳ぐらいなんですか?あの人は今の…」

阿部寛「たぶん、25(歳)ぐらいじゃないかなと思いますけどね」

山崎育三郎「そっからどうやってまた俳優業…」

阿部寛
「で、それ(「あの人は今」)で気づかされたんですよ。
あっ…もうやばいんだな」と思って。
なかなかそういうものっていうのは分かんないから。
仕事減ってんのは分かるけど。
それで「これはヤバいな」と思って。
じゃあどうしたらいいんだ。下積みもないし。
だから逆に下積み持ってる舞台の人とかアクションの人とか。
すごいやっぱり「どうやったらああいう風になれるんだろうな?」とか色々思ったけど。
なかなかそうやって入っていくっていう感じもないし。
なんか時間つぶしにパチンコ行ったりとか。
そういう風なことの生活をやっていて。
でも何かやらなきゃと思って。
何かでもやんなきゃと思っていた時期でした、その2~3年は」

 

自ら直談判して勝ち取った端役…高倉健さんと一言交わすわずか3秒の出演

仕事が激減した20代後半。
チャンスをつかむためにとった行動が、人生を変えることに。

山崎育三郎「出演を直談判したような作品もあったっていう風に聞いたんですけど」

阿部寛
「あ、それさっきの高倉健さんのやつ。
あの、高倉健さんが15年ぶりにNHKのドラマに出るっていう話があって。
それはもうキャスト全部決まった段階で聞いたんですよ。
それでちょっと、「あの、せめて何かそうやって僕がなんか出れる役何かないか」と。
で、「健さんととりあえず絡む役ないですか」(笑)
で、もうないって、全部。
で、(台本)見たらもう全部名前書いてあんですよ。
そしたらなんか、台本バーッって読んだら、「工事人A」っていうのがあって。
これ健さんとなんか一言声かわすんですよ。
なんか名前呼んでハッって…。
「あ、これ空いてます?」つったら、「これは空いてる」つったんで(笑)」

山崎育三郎「え、自分で売り込みに行ったんですか?」

阿部寛「自分で…まあ、ほぼ売り込みに行きましたね」

山崎育三郎「すごいな」

※そののドラマの映像が流れる

阿部さんの出演時間たった3秒。
どん底時代の阿部寛が必死の思い出出演をつかみ取った作品。
1992年放送 NHKドラマ「チロルの挽歌」(作 山田太一)。
主演の高倉健(当時61歳)さんは北海道でテーマパーク建設を行う企業の責任者。
そして、阿部さんがたった3秒出演したのは、工事現場でのワンシーン。

(ドラマの映像)

阿部寛(当時27歳)「たていしさん!電話 電話!」

高倉健(当時61歳)「電話?(うなずく)」

 

山崎育三郎「どんなお気持ちでした?その自分がもう3秒でも出たいと思って」

阿部寛
「もうあの3秒だけど。どんなドラマの撮影より覚えてますよ。
もう鮮明に、その瞬間っていうものを
でも今自分で見たけど、芝居。いい芝居してるんですよ、僕。
「ああ、意外といい芝居してるな」と思って。
やっぱり、そこに自分で(志願して)行ったっていう責任もあるし。
まあ、健さんが包み込んでくださったんでしょうね。

ほんで健さんがなんか声かけて下さって。
君なんか阿部くん。えっ、なんでこんな役で出たの?」って言われたんですよ(笑)。
「いや、あの健さんの現場…ちょっと現場の雰囲気でも見たいと思って」って言ったら、「おお、そうか」つって。
「じゃあもう今度…今度はちゃんとしたね、なんかやるんだったら役でやりましょう」って言われて。

で、その時に健さんがなんか名刺を渡してくれて
ほいで、高倉健って書いてあるわけですよ。シンプルな名刺で。
なんか、こんな僕に名刺くださるんだとと思って、すごく嬉しかったんですけど。

ほいで、健さんが打ち合わせしてるの見たんだけど、すごく喋りが上手いんですよ、実は。
ものすごい喋り上手いし。僕なんかにも気を遣ってくれるし
当時、娘役かなんかで出てた女優さんにもすごく気を遣ってて。
「あ、こんなに気のまわる人なんだ」と思ってびっりしたの。
もう寡黙なイメージあるじゃないですか。もうすごく饒舌で。

だけどまあ、そこから共演することはなかったけど。
もうそれは、今もこうやって喋れるぐらい一生の宝になったんで。
良かったです」

 

高倉健さんの名作をリメイクした作品に2度出演…憧れてる健さんのマネになってしまう

47歳の時、くしくも高倉健と同じ役を演じることに
2011年、高倉健の名作をリメイク「幸福の黄色いハンカチ」。
さらに7年後、再びリメイク作「遥かなる山の叫び声」で高倉健が演じた役を演じた(当時54歳)。
出演を直談判したあの日から、26年の月日が流れていた。

山崎育三郎「これ(高倉健さんが)やった作品、主演でオファーっていうのは…」

阿部寛
「これは、言っていいのかな…。(前記2つの作品の監督)山田洋次先生からお話が来たんですよ。
あの、山田先生からお話来たら、それはね、その当時の「黄色いハンカチ」も撮ってらっしゃるし。
これはちょっとやってみようかなと思ってやったんだけど。
どうしても健さんのマネになっちゃうね、やっぱり。
自分がやっぱりすごく憧れてるから

だけど同じような現場行って。昔の健さんを振り返るような気持ちでやらしていただいて。すごくためになりましたけど」

 

仕事に対しストイックな理由

もう二度とあの苦しみを味わいたくない

高倉健の背中を追いかけた阿部寛。
今では背中を終われる存在に。

井桁弘恵
「その仕事への向き合い方、ストイックさっていうのは、もう始めた時からそうだったのか、何かきっかけがあって変わったのかっていうのは…」

阿部寛
「やっぱりあれですよ。この世界に入って、こう来て(上がって)こう落ちたときに。やっぱりなんとかしなきゃと思ったし
周り、一緒に走ってた人間たちは、もうはるかにもう自分を置いてかれてたときだったんで。
あの、1回自分のやりたいこだわりとか全部捨てて。
とりあえず何でもいいからやるっていうことをしなきゃならない時期だったんですよね。

で、そこから、もう1回なんか自分でエンジンかかって、いろんな作品を掴むまでに時間がかかったから。

せっかく軌道に乗れたんだったら、もうどんどんどんどん前に進んでって。
二度とあの苦しみを味わいたくないなって思う力が強かったですね、30代

井桁弘恵「じゃあ、今思うとその時期ってすごく大切な時期?」

阿部寛
「いや、あの時期は本当に大切だったと思います。
そうじゃなかったら(苦しまなかったら)たぶん、そんなに熱心に仕事してなかったと」

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