徹子
「高倉健さん。早いもので没後10年が過ぎました。
今日は17年間高倉健さんの食卓を支えた小田貴月(たか)さんに在りし日の高倉健さんのお話を伺わせていただきます。
徹子
「まあ、高倉健さんは没後10年。享年83歳ってことでしたけど。
小田貴月さんでいらっしゃるんですけど、18年間表には出ず、高倉さんを支えた方でいらっしゃいます。
でもそれにしても高倉さんは、お若かったですよね」
小田貴月
「そうですねー。まあ、本人はその年齢というのを意識するということではなく、あのきちんと。
いわゆる、どういう風なその俳優でありたいかっていって。
晩年の言葉なんですけれども。
あの生き方が映る。だから、やっぱり地に足のついた生活を続けたいっていうそんな思いでいたと思います」
自宅全焼で亡くなった10匹以上の愛犬
命を預かる資格はないと犬は飼わず…代わりに可愛がった犬の置物
徹子「これ(=大きな犬の置物)あなたがお持ちになったんですか?」
小田貴月「そうなんです。抱きかかえて持ってまいりました」
徹子「重いでしょ?」
小田貴月「これが意外と軽いんです」
徹子「あ、そうなの?」
小田貴月「意外と軽いんです。だから、あのそんなにこう労せず運べます。はい」
徹子「高倉健さんもお好きだったの?これ」
小田貴月
「そうなんです~。あの、実は高倉はその自宅を全焼したことがありまして。
あの、1970年1月だったと思います。
あの、自宅で飼っていた犬を…あの、10何匹いたらしいんですけど。小型犬とか。
それをですね、家事の時に、高倉自身がお家の中にいて、助け出すことができた犬もいたらしいんですけど。結局仲間が家の中に残っていたので。きっと、呼ばれたんでしょうね。
助け出された犬も全部家の中に行ってしまって。焼死させてしまって。
で、それから僕は、もう命を預かる資格がないって言って。
で、晩年はその犬の図鑑を一生懸命見てるんです。
で、その時に話を聞いたら、「いや、僕はね。大好きなんだけれども、もう犬はね、飼わないって決めたんだ」ってそういう話を聞いたんですね。
なので、ちょっと切なくなってしまって。
たまたまなんですけれど、あの百貨店でこの2匹(の置物)が。こうやって本当に2匹いて。
あの、結構大きいものなので、なんか迫力あるなと思って。
で、その日のうちに、買って持って帰ってきたんです。
で、家の中に飾っておいたら、「どうしたの?」って言うので。
「あの、せっかくだったので、買って来ました」って言ったら、「うわ~っ」って言って喜んでくれて。はい。
それ以来の相棒のような存在です。
実はですね。庭にこう出していた時もあって。雪が降ったりして。この犬の頭にポンって雪が帽子みたいに乗っかったときがあったんですね。
「おいおい」って言われて、写真撮ったりとか(笑)。
生きてはないんですけど、すっごい可愛がってましたね。」
高倉健さんと出かけたことはゼロ…一緒に外食もせず
家のことは小田さんが全て行い…高倉さんは冷蔵庫も開けたことはなく
徹子「例えば高倉さんと一緒に出掛けたってことはあるんですか?」
小田貴月「ゼロです」
徹子「ゼロ?外食もしたことない?」
小田貴月
「ないんですよ、はい。だから、あの「今日のは美味しかった」って言って帰ってくるので。
「あ、そうでしたか」って言って。そんな会話でした(笑)」
徹子「まあお家のことは小田さんが全て。冷蔵庫を開けたことも高倉さんはない?」
小田貴月「私が知る限り。見てる所では、なかったと思います、はい」
高倉健さんがロケの時は普段より忙しかった
ピッタリの時間にモーニングコール…早くても遅くてもダメ
徹子「ロケでお留守の時は、少しはホッとできますか?」
小田貴月
「って思われるかもしれないんですけれど。
むしろ、ロケの時の方が大変だったんですね。
っていうのは、あの海外の場合と国内の場合とでまた事情は違うんですけれども。
海外にロケに出られると、時差があります。もれなく。
で、その時差に応じて、例えば明日何時にモーニングコールをしてくれと。
で、今のように携帯電話がない時代なので。必ずホテルのオペレーターの方を通して。
時間にピッタリじゃないと嫌なんですね。
早くてもダメだし、遅くても嫌なんですね。
だから、1分って60秒じゃないですか。で、60秒のカウントを自分の中でしながら。
オペレーターの方が何秒かかる。で、繋いでコールするのに何秒位かかる。
それも全部計算して、モーニングコール入れてたんですよ」
徹子「大変ね(笑)」
24時間体制で動けるよう準備…足りないものを発送、電話がきたらいつでも出れるように
小田貴月
「忙しいというか、計算するのが大変で。
それとやっぱり現地で何が足りないと。
で、色んなものもちろん持ってっているんですね。
あのお薬ですとかなんだ。でも、やっぱりそれはそれで行ってみないと分からない事情があるっていうことで。
目薬が欲しいとか。そういうものを。もう、「何個送ってほしい」って言って。
で、夜中に、あの郵便局の24時間やってる…あの時代はやってたんですね。
のとこに持って行って。発送して。で、寝ると。
で、またモーニングコールの時間考えながら。
もう、すっごい忙しいんです。ロケに出ている方が。はい。
で、携帯電話がない時代は、家の電話を鳴るのを待ってなきゃいけないじゃないですか。
だからお買い物行く時間も、時差を考えて。
この時間帯だけは絶対寝てるという時間にお買い物に行ってっていう、そういう感じでした。
忙しかったです、とにかく」
晩年の過ごし方
たくさんのオファー…体調が良い時に脚本を読む
徹子
「あのよく聞かれる質問は、高倉さんは撮影がない時は何をしてらしたんですか?っていうのが多かったんですってね」
小田貴月
「そうです(笑)あのー意外とその高倉の晩年は、映画に出演させていただく本数は限られていたんですけれども。
あの、オファーは本当にたくさんあって。
で、こう読まなければいけない脚本がどんどんどんどん積み上がっていくんですよね。
で、それをやっぱコンディションが良くないと脚本って読めないっていうことで。
あの、頂いたからすぐ読むっていうわけではないんですよね。
だから、「あ、じゃあ今日読む」って言って。
で、そのなんていうか、コンディションを整えることで恐らく仕事に…現場に行ってない時にはそんな気持ちでやってたと思います。はい」
亡くなった後、残された大量の荷物
大きな倉庫3か所分の荷物…ダンボール500箱以上
徹子「ああ、そう。高倉さんは生前整理っていうんですかね?そういうものは一切してらっしゃらなかった?」
小田貴月「はい。何にもしておりませんでした(笑)」
徹子「じゃあ、大変?あとは」
小田貴月
「そうですねー。残された荷物はちょっと予想をはるかに超えていて。
えーまあ、大きなところで3か所ほど、倉庫に荷物を預けていて。
まずそこの現地調査から始めました(笑)。はい。
で、その場であの開くわけにいかないので。全ての荷物をまず自宅に全部入れて。
で、あの駐車場がありまして。2台車が入るスペースなんですけれども。
そこに、もうパンッパンに入りました、段ボールが。
まず業者さんに詰めていただいて。で、開けるのはそこからっていうことで。
たぶんあの、抱えられるダンボールってあるじゃないですか?
あれがたぶん、500箱以上あったと思います。はい。
あの、ダンボールに入れられるものは入れていただいて。入らないものもあったので。
とにかく、パンッパンでした(笑)。はい。
で、そこから開いていって。必要な資料はやっぱり取っておかなければいけないので。
その時面白かったのが、『南極物語』というロケで南極、北極に行ってるわけですね。
で、その時に、あの紙ナプキン?ですとか。
地図の中に紙ナプキンが挟まっていて。
「うわ、こんなものまで取っておきたかったんだな」って思いました。
それはやっぱり、その自分の記録のような。気持ちの記録ですね。
文字は書いてないんですけれど、それを見たときに、なんかすっごくやっぱ切なくなって。
あの、どういう心境でこのナプキンを地図に挟んだのかって思うと、はい」
高倉さんの養女に
親族でないと細かい病状を聞けないことがきっかけに
徹子
「小田さんは高倉さんの養女っていうことになってるんだけど。
あの、ご本を読ませていただいたんですけれども。
結婚でも、どれでも良かったんですって?ほんとは」
小田貴月
「そうですね。あの実は私の母が脳梗塞で。
まあ、命はとりとめたんですけれども、病院でこう治療をしているということがあって。
で、やはり毎日看病に行ってたんですね。
で、「今日はどうだった?」って言って。高倉が聞いてくれて。
で、こうだったああだった。その話をする中で。
その「やっぱりドクターから細かい病状ですとか、そういったものを聞くのは、親族でないとダメなんですよね~」って何気なくこう話をしたら。
「あっ、そうなんだ」って。
自分自身は病気になるとかそういう予定はないみたいな形だったので。
あの、「ああそうなんだ。親族じゃないと入れないんだね」っていう話なんとなくしてたんですね。
で、自分もたまたまですけども、その私の母よりは年齢が上だったので。
「ああ、そうか。僕だってその病気になるかもしれないね」って。
「そうすると…」、あの当時わたしは「たかし」と呼ばれていたんですけれど。
「ああ、たかしには看病してもらえないんだね」っていうことになって。
で、ちょっと本人が考えたらしいんですね。
そしたら、「まあ念のため、こう一応戸籍を考えておいた方がいいかもしれないね」っていう話で。
一番その、まあ摩擦が少ないといいますか。
そういうところで、「じゃあ養女はどうだろうかと思う」と。
でも別にそれ、どの選択肢であっても今の生活が変わるわけではないので。
「もう、お任せします」っていう、そういう感じでした」
高倉さんがなくなった時の思い
一緒に死にたいという気持ちに…声が聞けないのが悲しく
徹子「高倉さんが亡くなった時は…」
小田貴月
「あのー・・・(長い沈黙)なんか私も一緒に死んでしまったような。一緒に死にたかったなぁってやっぱ思いましたね。
で、やっぱりこう。声が聞けないんですよね」
徹子「声がね。一番ね」
小田貴月
「はい。それまで会話を交わせていたので。
ああ、声が聞こえなくなるって、なんて…こう…。
悲しいをも通り越していたので。
ちょっとどう表現していいか分からないんですけれど。
こう残されてしまったなっていう。そんな感じでした。はい。
でもその後、まあそうはいっても、あの色んなことをし続けなければいけなかったので。
まずは元気でいないといけないって。
もう気力だけでしたので。何とか今日まで。没後10年になるんですけれども。
あのホントに皆さんに支えていただいて。
あのー今日まで生きてこられたなっていう感じがしています。はい」
高倉健さんの好きだった食べ物
映画『鉄道員(ぽっぽや)』の思い出の芋団子
****映画「鉄道員(ぽっぽや)」北海道ロケ会見(1999年)***************
高倉健(当時)
「まあ、(肌が)出てる所はやっぱり寒いですけど。
寒い所はでも、えー八甲田も3年行きましたし。えー北極にも南極にも行きましたし。
えーそんなに恐れてはいませんけど。
若いスタッフの方が、朝早い時間から、遅い撤収の時間まで、体調を壊さなければいいなと思ってます。
自分は自信があります。はい」
記者(当時)「なんか寒さも氷点下20℃近く」
高倉健(当時)「ええ、なんでもないですね」
記者(当時)「気に入ったメニューなどありましたら、教えていただけないでしょうか?」
高倉健(当時)
「いももちっていうのが、とってもなんか本当に婦人会の方のえー…気がこもっているっていうのは、こういうことなんだなというんで。
僕らも気を込めた映画を撮りたいという風に思ってます」
*******************************************
小田貴月「いももちと高倉は言ってましたけれど。芋団子というのが一応正解だそうです。はい(笑)」
徹子「で、召し上がってらしたの?」
小田貴月
「あの婦人会の方々がいわゆる炊き出しっていうんでしょうか?
撮影に本当に協力してくださって。
あの、いくとらっていう場所のあの名産・特産がメイクインっていうジャガイモだそうなんで。
で、高倉がその現場から帰ってきたときに、その今言ってる「芋団子って美味しかったんだよ。作って」って言われたんですけど。
私見たことも食べたこともないので。一体それはなんですかって話をして。
そしたらいや、ジャガイモを使ってると。それしかヒントがないんですよ(笑)
形もどういうものだったかって分からないので。
うーん、美味しかったんだな…って感じで(笑)
実はその最初に高倉とまあ出会った後、最初の映画が『鉄道員(ぽっぽや)』という映画でした。
なので、とっても印象深い映画ではあります。はい。」
進駐軍が1回使って捨てたコーヒーがとっても美味しかった
徹子
「まあ、高倉さんは、洋風なものがお好みで。
徹子の部屋ではコーヒーにまつわるお話をしてらっしゃるんで、ちょっと見ていただいてよろしいでしょうか」
*****1980年放送 高倉健さん当時48歳のVTR*******************
徹子(当時)
「コーヒーがお好きだって。わざわざかなり遠い所まで、若い時なんか飲みにいらしたことあるんでしょ?東横線の向こうの方まで」
高倉健(当時)「ええ(笑)」
徹子(当時)「それどういうコーヒーだったんですか?そんな遠い所までのみにいらっしゃるのは」
高倉健(当時)
「いえいえ、あの頃はですね。(咳払いをする)ごめんなさい。あのコーヒーのない頃で。
えー進駐軍が一回使って捨てたコーヒーをね。
えー今の小金町だと思うんですけど、横浜の。
えーなんかこの前ロケーションで、冬の花っていう写真で行きましたら。
運転手さんに聞いたら、もうそこは全部ビルになってるって言ってましたけど。
そこにずーっと屋台が並んでましてね。
そこの屋台で1回淹れて、軍で捨てたコーヒーを安く買ってくるんですね。
それがとっても美味しいんですよね、2度目なんですけど。
飲みに行ったことありましてですね」
**************************************
小田貴月「美味しかったらしいです」
徹子「なるほどね。それから、パンもお好きだったんですってね」
小田貴月
「そうですね。それもやっぱり進駐軍?の同じぐらいのお子さんと知り合って。
で、あのご自宅に呼ばれたことがあるんですって。
で、そこで、パンっていうものがあるっていうんで(笑)
今でいうイーストの香りっていうのが、それまで嗅いだことがなかったので。
これは豊かな香りだって高倉は。夢だったんですね。やっぱりね。
幼少期 母との思い出の卵
徹子「それで、あの方のお母様との思い出が卵だったんですって?」
小田貴月
「はい。あのーやっぱり、その戦中・戦後。食材を調達するのに、庭でニワトリを飼っていた時期があって。
で、あのーその4人兄弟で。高倉が卵をとりに行く係を仰せ付けられて。で、行くらしいんですね。
で、あのニワトリ小屋に入って。で、やっぱり警戒するじゃないですかそれって。
「姿勢を低くして、ポーポッポッポって言いながら近づいて(笑)そーっと取ってくるんだ」って言って。
で、生みたての卵って柔らかいんだよって。すっごく殻も柔らかくて。
申し訳ないって感じでとってきたっていう話を聞いて。
で、それをお母様が「今日はどうしたい?」っていう風に聞いてくださって。
で、兄弟それぞれが食べたい方法で食べさせてくれるっていう風に聞きまして。
で、すごく贅沢だったっていう。それを振り返ってましたね」
肉が大好きだった
徹子「そうですか。なんか、小田さんが17年間、あの高倉さんのために作ってらしたお料理がご本になったんですって?」
小田貴月
「ありがとうございます。実は、『高倉健、その愛』という本を書かせていただいた時に。
これも高倉が、自分のこと書いてねって言われたので、宿題だと思って書かせていただいたものがあって。
で、その中にどういう物を食べているかってメニューを書かせていただいたんですね。
そしたら、ある編集者の方が、「いやこれ食べてみたいです」っておっしゃってくださって。
「ああ、そう思います?」って言って。
それはもう文字だけだったので。まあ、再現することになるんですけども。
じゃあ一体17年の間、何色ぐらい一緒に食べたのかって計算したんですね。
そしたら、1万3000食だったんですね。
で、それってロケに出てる時は一緒じゃないので。完全に一緒に食べたもの。
だから、その中からどのように選ぼうかしらみたいのがあったんですけれども。
高倉、肉が大好きで。とにかく「肉!」って言うんですね。
で、肉と言っても色んな種類があるじゃないですか。
だから、牛もあれば、豚もあれば、鶏の中でもニワトリがあって、鴨があって。あとラムとか。
そういうのをまんべんなく、一週間の間に必ず肉は出すようにして。
で、それをまとめさせていただいて」
徹子「でも食事が作れなくて、栄養失調で入院したこともあるんですって?」
小田貴月
「(笑)私ですね。とにかくその高倉を見送った後、かなり体調を壊して。
で、ちょっと私自身が立て直らないといけないということで面倒見ていただきました」