今世界を熱狂させているYOASOBIやAdoに先駆け、12年前からワールドツアーを行う。
今年結成25年。
最新の映像技術とダンスが融合したライブは、海外からも高い評価を受けている。
9歳で出会い、10歳で結成
林修
「でもまずは、結成25周年っていうことで、おめでとうございます。
25年ずっとってことは、何歳の時に結成されたんですか?」
かしゆか「9歳で出会って、10歳ぐらいではもう結成してます」
林修「じゃあ、小学校の時の知り合いがずっと続いてる?」
3人「そうですね」
かしゆか「友達から始まってます」
林修「なんか聞いたところによると、結成年を勘違いされてたんですか?」
あ~ちゃん
「あ~そうなんよね。
この間まで、2000年じゃと思ってたんですけど、妹に聞いたら「1999年よぉ」って教えてくれて」
林修「だって、妹さんの記憶が確かだって証明できるんですか?」
あ~ちゃん
「妹の記憶力はエグいので。事実と照らし合わせて教えてくれました。
「ユニットオーディション終わってからね、その時にね、結成じゃろうけん」っていう。
で、「元々2000年って書かれとったんは、たぶん人の前で初めてやったんが2000年じゃけんよ」って言ってました」
林修「でも先ほどからずっと話していらっしゃるように、普段から広島弁なんですか?」
あ~ちゃん「広島弁ですね。でも、もうだいぶ東京に染まってるっていう感覚もあります」
林修
「いや、あんまりその染まり具合がよくわからないんですけど」(笑)
紅白歌合戦16年連続出場!
林修
「Perfumeお三方と言えば、紅白歌合戦。16年連続出場。
もう女性グループでは最多ということで」
紅白歌合戦16年連続出場のPerfumeが初出場したのが、結成9年目の2008年。
ブレイクのきっかけとなった『ポリリズム』を披露。
3人は歌い終わった後、感激のあまり裏で大号泣したという。
そして、2013年6回目の出場では、ひときわ観客を驚かせた。
当時まだ珍しかった最新技術プロジェクションマッピングを取り入れ、激しく踊るメンバーの真っ白な衣装に立体的なフルCGの映像を映す圧巻のステージ。
11回目ともなると更に進化。
生放送の紅白の舞台で現実と仮想空間をリアルタイムで入れ替えるという画期的な演出。
林修「この初出場の時に、歌い終えられて、号泣された。どんな心境だったんですかね?」
あ~ちゃん
「夢が叶ったし、応援してくれている人に、なんか恩返しができたような、そんな感覚もあるしっていう。
それを多分一番実感したタイミングが、袖にはけた時」
かしゆか
「広島から上京してから、東京で活動してても、頑張っても、地元まで届かないってことはたくさんあって。
紅白に出れるっていうことが、地元の家族だったり親戚だったり友達だったり。
送り出してくれた人たちへ、こう届ける手段でもあったというか。
頑張ってるよって、ここまで来たよっていうのを伝えれる方法だったんですよね」
Perfumeとハイヒール
1人1人の足に合わせて作られた特別なハイヒール
林修
「でもそのライブも含めて、基本的にいつも(ハイ)ヒールを履いてパフォーマンスをなさって。
まあ、最近はヒールを履いてるアイドルっていうのもまあ、チラホラはいるようになりましたけど。やっぱり、先駆者ですよね」
あ~ちゃん
「いや~そんな恐れ多いですけども。
スニーカーだと、もうほんと、ダンサーが爆発しちゃうっていうか、3人とも。
めちゃくちゃHIPHOPの育ちできたので。
たぶん、結構これ(ハイヒール)でお品が保たれてるっていうのもあって。
MIKIKO先生の振付をヒールで踊るからPerfumeっぽくなるみたいな」
かしゆか「1人1人の足に合わせて作っていただいてるので」
あ~ちゃん「なんで、もうこのゆかちゃんの靴と私の靴は形が違うんですよ、実は」
林修「オーダーされたら、(足の)痛みは軽減したんですか?」
のっち「あ、軽減しました」
あ~ちゃん「だいぶ変わったよね」
林修「やっぱり、ちょっとは痛い?」
のっち「あ、ちょっとは痛いです」
あ~ちゃん
「まあ、これで3時間踊ったら、なんの靴でも痛い。
その中で、つま先で踊っとんじゃけ、そりゃ痛い」
林修「それはもう。ぐうの音も出ない。おっしゃる通りでしょう。ってことですよね」
2時間のライブの後は、足がはれ上がり、氷水でアイシングしないと歩くこともままならないという。
今ではPerfumeを象徴するアイテムとなった8㎝のハイヒール。
かしゆか
「私たちは本当にカスタムして、自分の足になるように作っていただいてるから。もう走れるっていう」
Perfumeの原点
Perfumeはいかにして誕生したのか。
その原点には、25年間メンバーと共に歩んできた1人の恩師と3人を叱咤激励し続けた母親たちの存在があった。
アクターズスクールに入校し、出会った3人
1999年 アクターズスクール広島に1期生として入校した3人。
当時は、あ~ちゃん、かしゆかともう1人別のメンバーで結成した「ぱふゅ~む」だったが…
林修「そして、後からのっちさんが加入された(2001年加入)ということなんです」
あ~ちゃん
「これは、(もう1人が)辞めるってことになって。
急遽、メンバーがもう1人必要だってなって。
だあ、もう、あやのちゃんじゃあってなって。
エレベーターの中で…」
林修「また、逃げられないとこで」(笑)
のっち
「レッスンの帰り道に、エレベーターで2人になった時に、「ぱふゅ~む入らん?」って誘ってもらって。
即、もう「入る、入る、入る!」って言って入って」
あ~ちゃん
「私とゆかちゃんはあのアクターズスクール入った時から、その同じクラスだったんですよ。
なので、振り付けの先生もMIKIKO先生で、ボイス(歌)の先生も同じみたいな。
でも、のっちはちょっとスタークラスに入ってたんで、先生が違ったんですよ。
で、クラスがちょっと違ったんですよね」
林修「のっちさんの方が上のクラスだったんですよね?」
あ~ちゃん「のっちは、もう期待されたクラスでした」
林修
「で、もうよく分からないんですけど、下のクラスからこう誘いがあるって、なんか足をひっばられるような…」(笑)
のっち
「いや、私からしたら、全く下とか上とかの概念がなくって。
当時は、かっこいい音楽。
カッコいい歌うたってダンスしてっていうお姉さんたちの中で、こうアイドルらしく、振りをそろえてカワイイ曲を歌ってっていう3人が際立ってたので。
これに入れるんだぁって」
林修
「ああ、そうだった。ごめんなさい。ちょっとそこが気になったもんですから」(笑)
あ~ちゃん「そんな聞き方する人、林先生だけですよ~(笑)」
結成から3年目にインディーズデビューするも、ファンはおらず…
現在はテクノポップユニットとしての地位を確立し、世界的に人気のPerfumeだが、結成直後は…
あ~ちゃん
「当時はテクノポップではなくて。
ホントにいわゆるアイドル楽曲みたいな感じで。
詩の中に自己紹介が入って「あ~ちゃんだよ」とか「かしゆかだよ!」とかそういうの入ってたりとかして」
元々はアイドルとして活動し、結成からわずか3年目の13歳の時に、インディーズデビューした3人。
林修
「まあ、結構順調だったようにきこえるんですけど、ファンはたくさんいらっしゃったんですか?」
あ~ちゃん
「いや~おらんかったよね。
もうい~っぱいサクラみたいなのしてくださって。大人の人たちが」
林修「サクラ(笑)…サクラ?」
のっち「握手会ね、何回も何回も(同じ人が)周ってくれたりとか」
あ~ちゃん
「毎日、雪の日でも雨の日でも風の日でも、ビラ配りをしたときがあったんですよ。
デビューして、イースターイベントやるってなったけん、イベントに色んな人来てもらえるように、自分らでできることしようって言って。
毎日毎日、何週間も(ビラ配りを)続けてやったイベントが、お客さん2人しか来ないんです。
メンバーより少ない」
林修
「うわ、それは厳しいですね。でも、さすがにちょっと、こうグッとくるっていうか、心が折れる部分はなかったんですか?」
のっち
「なんかその時は、確かに落ち込んだ記憶はあったんですけど。
だから、なんかだめかもしれないとか、これから先大丈夫かなみたいな不安には繋がらなかったですね。
じゃあ、どうしていこうとか。うん」
3人の母がプロデュース
夢を叶えるために厳しかった3人の母
林修
「実はそんなこともあった広島時代の3人のことをよくご存じという方からメッセージをいただきましたのでご覧ください」
**********************************
演出振付家のMIKIKOさん
社会現象となった「恋ダンス」の振付や、2016年リオ五輪閉会式の演出を担当。
Perfumeのほとんどすべての振付やライブ演出も手掛ける、正に第4のPerfume。
3人との出会いは?
MIKIKO「3人が小学校5年生の時に出会ってるので。25年以上の(付き合い)、はい」
1999年当時小学生だった3人が広島のアクターズスクールに入学して、最初にダンスを習ったのが、このMIKIKO先生。
それ以来、25年間、4人で苦楽を共にしてきた。
先生曰く、当時まだ幼かった3人が厳しいレッスンに耐えていけたのは、ある人たちの存在があったからだという。
MIKIKO
「とにかく、厳しく厳しく。
夢を叶えるにはここまでやらなきゃいけないんだよっていうことをあのー教えてくれてたのは、まぎれもなく、お母さんたちだなと思ってます。
これでも言っていいのか分かんないですけど。
あのースタジオの外に鏡が置いてあって、そこで自由に練習していいよっていう空間があるんですが。
そこで3人はレッスンとレッスンの合間は必ず練習していたし、たぶんそのコーチをしてくれてたのは、お母さんたちだったんじゃないかなという記憶です。
振り返ると、いつもお母さんたちの顔は思い浮かびます」
***********************************
かしゆか
「母たちは、ダンスをしたことがないけど、お客さんから見た立場として、振付の指導もすごく厳しかったです」
あ~ちゃん
「鏡の後ろで見られるんよね。
「あ~ちゃん、もうちょっと下!」とか。
「先に右手が出よるよ!」とか」
かしゆか
「イベントだったり、発表会だったり、出る時は、すべてお母さんたちが全部やってくれてたんですよ。
衣装を生地から集めてね。形を自分たちで縫って作ったりとか。
どういうメイクにする?とか。
もうホントにプロデュースを母たちがしてくれてたので。
ホントに母たちのおかげで、上京できたっていうのはありますね。
中学3年生で上京 「寂しくて電話しても厳しい母」(2003年)
林修
「で、そういう中で2003年春に、中学3年生になるタイミングで上京されたと。
そんな密接な結びつきがお母さんとあったのが、それが一旦こうちょっと切れるような形で。
寂しく思われなかったんですか?」
あ~ちゃん
「いや~私は2カ月過ぎたぐらいから、何か本当に「かあさ~ん(泣)」ってもう毎日電話してましたね。毎日電話」
林修「で、その時は優しく慰めてくださるんですか?」
あ~ちゃん
「いやもうスパルタなので。
「あんた、なんで電話してきよるん?」みたいな。
「今何の時間なん?」みたいな。
「スタジオがあるんじゃけ、練習しに行きなさい」みたいな。
「下にあるじゃろ」みたいな。
「あんたは常に崖っぷちなんよ」みたいな。
「いつ広島に帰されるか分からんけんね」みたいな」
林修「今でもですか?今はさすがにもう?」
あ~ちゃん
「今はさすがに言わんなったね。「もう、幸せよ~」。
お母さんたちみんな仏みたい。
「ほんまに幸せ」っていうことしかホントに言わなくなったんですけど(笑)」
テクノポップという新ジャンルへ「とにかく食らいつく」(2003年)
ゲームの音みたい…テクノポップの魅力が分からず
そして上京した年(2003年)に、Perfumeの人生を大きく変える人物との出会いが。
それは、サウンドプロデューサー中田ヤスタカ。
彼との出会いにより、テクノポップという新たなジャンルに踏み出す。
しかし、この路線変更には、大きな葛藤があった。
林修
「でも、率直に、最初この歌をどう?って持ってこられて。
テクノポップ聞いた時に、どう思われました?」
かしゆか
「もう、ゲームの音みたいと思って。
そのアクターズスクールで培われてきて、良しとされてるものは、歌い上げるディーバみたいな。
感情をもっともっと表に出して、抑揚をつけてっていう歌い方だったのが、真逆のことを言われる楽曲だったんですよね。
「もっと冷たく」「もっと喋るように」って言われて。
レコーディングした時、すっごい戸惑いました」
あ~ちゃん
「もう、めっちゃくちゃ細かかったですね。
「ここはもっと文節切って」とか。
『美味しいレシピ』っていう歌があるんですけど、もう音みたいな。
中田さんのその音楽自体の魅力はどういうところにあるのかさえ分からなかったんですよね」
かしゆか「それぞれに泣いてたね」
林修「泣いてた…のっちさんも泣かれたんですか?」
のっち
「はい。あの、ブースを出て、ソファーがいっぱいあって、(名探偵)コナンの漫画があって。
で、そこで泣いてたのすごい覚えてます」
林修「もう広島帰ろうっていう話にはならなかったんですか?」
あ~ちゃん
「いや、それは誰も言わなかったですね。
とにかく、食らいつくっていう感じで」
林修「これは、自分たちのやりたいことじゃないっていうようなこともおっしゃらず?」
あ~ちゃん「あ~確かに。思わなかった」
のっち「思わなかった」
大ブレークのきっかけはCMへの楽曲起用(2007年)
母たちは「ここからが大事」と決して浮かれず…
自分たちのやりたいことをやるのではなく、自分たちに「求められること」をやり続ける。
そんな下積み時代を過ごしたPerfumeは上京から4年後の2007年。
あるCMがきっかけとなり、大ブレークを果たす。
それが…環境保護キャンペーンのCM。
このCMが放送されたことで、Perfumeの知名度は全国に広がった。
林修「これでやっぱり自分たちのブレイクしたポイントだな?と」
かしゆか「そうですね」
林修「お母さん方はどうおっしゃったんですか?」
あ~ちゃん
「もうとにかく、両手上げて喜んでるっていうよりかは、「ここが大事よ」みたいな。
「こっからが大事。なんかここであったらダメじゃけん」っていうことで、ずっと、もうギューッとしめられてましたね」
林修「手綱を引き絞って?」
あ~ちゃん「そうですね、はい」
ここから、紅白歌合戦16年連続出場というPerfumeの快進撃が始まっていく。
Perfumeのライブはファンとの距離が近い
aikoさんから学んだお客さんとの距離の近さ
Perfumeのライブと言えば、とにかくファンとの距離が近い。
そのスタイルには、3人が尊敬するaikoから学んだ精神がある
林修
「ちなみに、このファンとのコール&レスポンスは、aikoさんからもらったものなんですか?」
あ~ちゃん「もらったっていうか…」
のっち「フランチャイズみたいな感じです」
林修「みなさんがaikoさんのことをリスペクトされてて」
あ~ちゃん
「そうです。もうaikoさんのライブを観に行ったら、その衝撃がすごくて。
すごく重要な部分が、お客様との距離なんですよね。
それがもう、ホンマに近くて。
もう友達みたいに、歌が終わったら、一生喋っとったんですよ。
会話をしとったんですよ。で、距離を感じさせないというか。
それがもう、コール&レスポンスに、もうほんとに凝縮されていて」
〈実際のPerfumeライブでのコール&レスポンス〉
あ~ちゃん「男子!」 男子「イェーイ」
あ~ちゃん「女子!」 女子「イェーイ」
あ~ちゃん「メガネ!」メガネの人「イェーイ」
あ~ちゃん「コンタクト!」コンタクトの人「イェーイ」
あ~ちゃん「裸眼!」 裸眼の人「イェーイ」
あ~ちゃん「弁護士!そこ!若いじゃん!いくつ?29。頑張ったね~」
あ~ちゃん「それでは、続いて医者!いるじゃん!いっぱいいる!」
あ~ちゃん「今日、このライブを超楽しみにしてきた人!」 全員「はーい!」
林修「意外と個人情報を暴いていくスタイルですね」(笑)
あ~ちゃん「違う。どこかには手を上げられたらいいなと思って」
林修「そういう事まで配慮されて」
あ~ちゃん
「そうですね。私置いてけぼりにされたって、こう思わないような。
自分もやっぱり、そこに加入出来たら、すごい嬉しいから。
そういう気持ちみたいなのをお土産で持って帰ってほしくて」
海外でライブ開始(2012年)
林修「お三方が海外に出られたのも早かったですよね?」
かしゆか
「2011年にね、あのピクサーの『カーズ2』という映画の挿入歌に『ポリリズム』が選ばれて、ワールドプレミアにお邪魔させてもらった時に。
「あ~ちゃん、かしゆか、のっち、こっち(海外)でライブしてよ!」って言ってくれる方が、関係者じゃなくて、普通に見に来てくれてたファンの方がいらっしゃって。
あ、じゃあやっぱり海外でも求めてくれる方がいるなら行きたいねっていうところから、2012年…次の年から、海外でライブするようになりました。」
これまで行った海外ツアーは4度。世界21都市で行い、高い評価を受けている。
その人気の秘密が、最先端技術を使ったライブ演出
25年の付き合い!振付MIKIKO先生とPerfumeの絆
しんどい、辞めたいと言ったことは1度もない
観客がたった2人だったデビュー当時から、25年間、その姿をずっと見てきたMIKIKO先生は…
MIKIKO
「わたしになんかしんどいとか、辞めたいとか、言ってきたことは一度もないです。
何もできない時間でも、なんか練習をしていた印象があるし。
だから、やっぱステージに立って、こうお客さんが埋まっている光景を見たときに、思わず、今までの苦労がワーッて出てきて、涙する姿を見て。
「ああ、やっぱりしんどかったんだな」って知るみたいな感じでした」
Perfume3人の人柄に救われた
MIKIKO先生に導かれ、母親たちに支えてもらって今がある。
だからこそ、Perfumeは25年間、ライブであることを欠かさずに行っている。
それは…スタッフへの感謝の言葉。
周りに支えてくれる人がいて、初めて活動できることを3人は誰よりも理解している。
あ~ちゃん
「多くのスタッフがこのライブを支えてくれています。
このカウントダウンの瞬間、年越しの瞬間も働いてくれています。
そんなスタッフにもどうぞ拍手をよろしくお願いします。ありがとう!」
そんなPerfumeの人柄に救われ、MIKIKO先生が心から感謝していることがある。
MIKIKO先生が人生で最もつらい体験をしたときPerfumeとの間に感じた絆とは…
MIKIKO
「2020年とか2021年位。
まあ、それまで関わってたちょっと大きなプロジェクトをなんかやっぱり、自分の志を曲げることができなかったので、こう辞退することにして。
それこそこう、もう1回演出家としてこう一生懸命立ち上がらないといけない時というか。
で、まあそれは3人に対してもこうきちんと説明しないといけないことだったので。
あのー説明した時に、3人がなんかこう、本当にこう家族のように、一緒になって泣いてくれて。
でも私はそれを見たときに、「あ、ここにいるから大丈夫」って思えたというか。
で、そこでエネルギーを貰って、ポリーオンウェーブを作りあげることができたので。
なので、再生させてくれたタイミングと言いますか」
(涙を流すあ~ちゃん)
本当につらいことがあっても帰る場所がある。
だから、MIKIKO先生は再び前を向くことができた。
MIKIKO先生から3人へメッセージ
3人へMIKIKO先生からメッセージ
『あ~ちゃん、ゆかちゃん、のっち。
25年あっという間でしたけど、25年経って、なんかやっぱり、今が一番お互い正直で、体当たりしていられる感じがしていて。
で、良き仕事のパートナーであり、良き理解者であり、あの良き仲間、そして良き友達になれてるなっていう実感があります。
見たい景色が常に3人とは一緒でいられている気がしているので、これからも笑いながら共に過ごせていけたらなと思っています。よろしくお願いします。』
MIKIKO先生はなくてはならない大切な存在
林修「ご覧になって、改めていかがでしょう?」
あ~ちゃん
「いや~私たちも家族みたいに思っているので。何か先生からこんな贈り物みたいな大事な言葉頂いて。
ほんと、長くやってきて良かったなと思います。
あのお話(=再生の話)を先生がされるの初めてだと思います」
かしゆか「メディアで口に出して言うことはないですね」
林修
「ここにいるから大丈夫だと思えたっておっしゃってて。
再生できたってことばなかなか使わないと思うんですけども」
かしゆか
「私たちPerfumeの存在自体が先生がいないとここまで来ることもできなかったですし。
ホントに私たちの体の一部のように大切に思っている存在なので。
先生がやりたくないことはしたくない。
先生の想いと同じところで、一緒に頑張りたいっていうのがずっとあったので。
その時もどれだけ抱え込んで、大変だったんだろうって。
私たちの想いも背負ってやってくれてたからこそ、一緒の立場で、一緒にずっいたい」
Perfumeは何歳までやる?
林修
「となると、皆さんPerfumeは何歳まで…いつまでやりたいと思われてるんでしょうかね?」
のっち
「いくつまでやるかって言われたら、できる年齢まで。
どうなっていくんだろうって楽しみではありますね」
あ~ちゃん
「5年前より今の方が動けるんですよ。
10年前に、うわ~大変だ~って思ってたことが、今やもう大変ではないんですよ。
なんか、年齢と共にそういう風に体は変化するってことが、30超えて分かって。
そことどう向き合うかってことを、自分たちそれぞれで向き合って、習得してるので。
じゃけぇ、まだ踊れるなぁ。ねえ?」
かしゆか
「あの、先生が踊れるってことは、私たちも踊れるっていうことで。
いつも先生が未来を見せてくれるんですよね。
どんな時も、先生が「30代ってすっごい楽しいよ」って言ってくれたから、「ああ、30代って楽しいんだ」って。
先生がどんどんこう明るい未来を、大人になることの楽しさをずっと見せてくれてたので。
先生が踊り続ける限りは、私たちも踊ります」
林修
「じゃあ、先生が「やっぱり、60過ぎるとガクッと来るわよ」って言ったら?」
かしゆか「覚悟します!」(笑)
収録終わりにもPerfumeらしさが…
あ~ちゃん
「ステキなVTRとほんとたくさんの質問ありがとうございました」
3人「ありがとうございました。」
どんな場面でも感謝の気持ちを忘れない。それがPerfume。
あ~ちゃん
「林先生、本当にありがとうございました。うちのスタッフさんたちが、もう林先生のダンスを大絶賛してて」
林修「お恥ずかしい限りで・・・」
あ~ちゃん
「ほんとに。なんか色んな方と一緒にコラボしたりとかもあるんですよ。
あの曲、結構。もう、林先生が一番うまい」
林修「いや、そんなことはない」
あ~ちゃん「ほんとほんと」