土屋太鳳
「よろしくお願いします。すごく嬉しいです。
私は10代の頃から、林先生の番組だったり、すごく感動…「今でしょ」っていうのが流行ってる時」
林修「そんな感動する…?」
土屋太鳳
「取材とかで、どなたと話したいですか?って言われた時に、池上彰さんとか。
あとは林(修)先生。あとはなかやまきんに君。
…と話してみたいってことをずっと言っていて」
土屋太鳳さんプロフィール
1995年(平成7年)2月3日生まれ(放送日現在30歳)
東京都世田谷区出身、O型
夫はGENERATIONS from EXILE TRIBEの片寄涼太さん
端島(軍艦島)が舞台のドラマ『海に眠るダイヤモンド』
昨年母となり、さらに輝きを増す女優。土屋太鳳さん。
現在放送中の日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」。
舞台は高度経済成長期(1955年~)に石炭産業で躍進した長崎県端島(通称 軍艦島)が舞台。
上陸制限…端島(軍艦島)の街並みを群馬県に再現
林修「なんかロケ地がとんでもない所だっていう風に聞いたんですけれども」
土屋太鳳
「そうですね。その舞台が、今上陸を制限しているので。
撮影することができないんですよね。
なので、色んな地方に行って撮影してるんですけど」
活気に溢れた1955年の端島(はしま)。
その街並みを群馬県のとある場所に再現。
(端島を再現したセットの写真が映る。当時の端島そのもののが表現されている)
土屋太鳳「本当に美術さんの力が素晴らしいですね」
この作品はロケ地に徹底的にこだわっている事でも話題に。
群馬だけでなく、ある時は静岡県伊豆半島の海岸へ。
またある時は、広島県呉市の桟橋へ。
他にも、ワンシーンを撮るためだけに兵庫、栃木、茨城と場所を変えながらの撮影に、土屋太鳳は母として子供を育てながら参加している。
撮影現場に子どもを連れて行く
林修「お仕事と家庭・育児の両立は大変なんじゃないですか?」
土屋太鳳「そうですね。大変ですね…」
林修「その現場にお子さんを連れて行かれるんですか?」
土屋太鳳
「なんてったって、2時間半かけて行ったりとか。
5時間かけて行ったりとかするとなると、やっぱ離れることができないので。
家族の協力があって。
そしてスタッフさん方がこう控室を用意してくれて。
撮影の時は待っててもらって。外で遊んでもらってってことをしてます」
林修
「でも、傍から見てると、(産後)すごいスピードで元に戻られたな(仕事復帰したな)という風に見てたんですけど」
土屋太鳳
「でも体が、筋肉が全部1回落ちるんですよね。
だから初めて産後走った時、5分も走れなくて。
5分走っただけで、もう30分走ったかのようなこう疲労がありました」
土屋太鳳といえば、抜群の運動神経。
2016年オールスター感謝祭の赤坂5丁目ミニマラソンに出場。
4週の内3周を1位通過するほどの実力を見せた。
アスリートも参加する中、女性トップでゴール。
ドラマもバラエティーも関係なく、やるからには何事にも全力という生き様が現れた瞬間だった。
不器用で不安…作品や役について徹底的に質問する
不器用で、不安だからこそ、徹底的に努力をする。
その証拠に、ドラマ日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」でも、自身が生まれる前の時代背景や心に陰のある役を演じる事に不安を抱いていた土屋さんは…
土屋太鳳
「まあ、この作品の台本ができてない状態にオファーをいただいて。
この作品が何を描きたいのか。
あと、私が演じる百合子が具体的に何をして、何を描きたいのか?っていうことを知りたくて。
で、一度監督とプロデューサーさんとその脚本家さんとお会いして。
迷ってること、不安に思っていることをこう質問として全部投げかけて。
で、ディスカッションしてから、あのーお手紙をいただいたんです」
林修「脚本家の野木亜紀子さんからお手紙が届いたんですか?」
※脚本家・野木亜紀子さん…代表作「逃げるは恥だが役に立つ」「アンナチュラル」など
土屋太鳳
「そうです。いただきました。
まあでもそのお手紙が自分の心のスイッチを押すきっかけになったので。
自分は力になれるだろうか?と今でも寝れないぐらい不安なんですけど」
プライベートで実際に端島へ
林修「実際に(プライベートで)端島にも行かれたんですか?」
土屋太鳳
「実際にも役作りで行かしていただいて。
端島を見ないと、やっぱり台本だけでは想像できないし。
こう台本で読んだときの、こうリアルの欠片みたいなものが、行った時に、こうちゃんとピースとしてはまっていく感じがしました」
脚本家やスタッフと納得がいくまでディスカッションを重ね。
作品ゆかりの地にはプライベートで実際に訪れる。
準備を一つずつ積み上げることで不安と戦っているのだ。
13歳からこの世界へ
2008年 13歳 映画「トウキョウソナタ」に出演
2010年 15歳 大河ドラマ「龍馬伝」でドラマデビュー
2014年 19歳 映画「るろうに剣心」、朝ドラ「花子とアン」に出演し
2015年 20歳 NHK朝ドラ「まれ」のヒロインに抜擢
その後も話題作への出演がつづき、これまでに主役を演じた作品はドラマと映画でそれぞれ16本。
まさに華々しい俳優人生を送っているように見えるが…
最初は全然受からず…
林修「今現在29歳で、この世界で16年?」
土屋太鳳
「そうですね。16年ですけど、1つ1つのオーディションを命綱のように繋いできたという感じで。私が」
林修「そう?そんな印象ないんですけど、そうなんですか?」
土屋太鳳
「そうなんですよ。最初の方は全然受かりませんでした。
だから、16歳とか17(歳)でちょっとずつ受かり始めて。
18(歳)で(NHK連続テレビ小説・ドラマ)「花子とアン」に出会って」
林修
「年表を見ると、もう「花子とアン」に出られて、もう翌年すんなりこう(「まれ」の)主演でっていう風に思ってましたよ」
土屋太鳳「いや、違うんですよ」
『花子とアン』撮影中に『まれ』のオーディションに…NHKドラマ出演中にコンビニでバイト
2014年 18歳の時、NHK連続テレビ小説「花子とアン」でヒロイン吉高由里子の妹役をオーディションで勝ち取った。
その「花子とアン」に出演しながら、翌年の朝ドラ「まれ」のヒロインオーディションにも挑戦するのだが…。
実はこの時、吉高由里子にかけられた言葉を胸に女優土屋太鳳は大きく飛躍していく事になる。
土屋太鳳
「「花子とアン」の撮影して、(「まれ」の)最終審査に行ったんですけれど。
その吉高由里子さんが私の手を握って、
「太鳳ちゃん。今のは準備運動だよ。準備運動だから、これから全力で頑張っておいで」
って言って、送り出してくれて、最終審査に望んだんですけど(笑)」
林修「なるほど。吉高さんの力を借りて、見事合格を勝ち取られたと」
土屋太鳳
「そうですね。なんか、「まれ」の最終審査の時に、ドア出るじゃないですか。
「ありがとうございました」って。
そしたら、(ドアに)ゴーンってぶつかって。
あの、なんかこのまま出ちゃいけない気がしたんです。
それで気づいたら、「私にチャンスをください!」って言ってて。
「今でしょ」だったんです。
私はオーディション時代、本当に「今でしょ」を心の中で何回つぶやいたことか。
これホントに。
1つの作品がクランクアップしたら、次のクランクインにつなげられるか。
そういったこう何年間を過ごしてきたので。
「花子とアン」の撮影をしてるときに、バイトしてましたから。その最中。コンビニで。
決まってないから。
「花子とアン」の次が決まってないから、「花子とアン」撮影しながらバイトして。
すんごい面白いお客さんがたくさん来るんですけど」
林修「でも、嫌なお客さんもいるんじゃないですか?」
土屋太鳳
「あ、いるんですけど、あの私の方が迷惑かけて。
あの、たこ焼きあるじゃないですか。
あれをソースとマヨネーズそのままチンしちゃったんですよ」
林修「ああ。どうなったんですか?」
土屋太鳳
「爆発しました(笑)
それで「あ、すみません」って言って。もう1個って探したら1つもなくて。
「すみません。ソースとマヨネーズはそのままで。あの、ご自身でどうにかできませんか?」って言って。
そのお客さんにもしあったら、「すみません」って伝えたいです」
NHK『まれ』の主演がターニングポイント
アルバイトをしながらオーディションに挑戦し、2020人の候補者の中から朝ドラ「まれ」のヒロインを勝ち取った。
この時19歳。これでようやくアルバイトをやめ、俳優一本で生きていく事になる。
林修
「「まれ」っていうのは、本当に土屋さんにとってはターニングポイントになった大きな作品なんですよね?」
土屋太鳳
「そうですね。太鳳(たお)って読み仮名。
読み仮名がふられなくなったっていうのは、「まれ」からがきっかけです」
林修
「読み仮名がふられてないってことは、これで通じる存在になったって自分でも認識できますもんね」
土屋太鳳「何か少し、名前を知っていただけたかなぁっていう風に感じました」
林修「まあ、主役を演じられましたが、いかがでした?」
土屋太鳳
「まあ、でも、オーディション組って控室がないんですよ。楽屋が。
だから常にああいう前室(=スタッフが準備するための部屋)にいるって感じで。
だからこう…」
林修「主役が前室にいる?」
土屋太鳳
「はい。だから、このスタッフさんがこういう仕事をしてるんだとかっていうことが、覚えてくんですよね、見てると。
なんか、そういう意味もあるのかなと思いつつ。
まあ結構…うーん…まあ、うん…唯一無二な思い出にはなったかなと思います」
俳優・佐藤健さんが語る土屋太鳳さんの素顔と映画『るろうに剣心』
監督から「すごい子見つけた」と聞き…
そんな彼女には芝居の恩師と仰ぐ人がいる。
当時19歳だった彼女に演技やアクションなどを教え、人生の師匠と仰ぐ存在が、6歳年上の俳優・佐藤健さん。
2014年の映画「るろうに剣心」で初共演して以来の師弟関係。
そんな佐藤健さんに土屋太鳳さんの第一印象を聞くと…
佐藤健
「まあ(映画)「るろうに剣心」のときなんですけど。
監督の大友(啓史)さんが「すごい子見つけた」ってすごいテンションで言ってて。
お会いする前にやっぱしっておきたくて検索したら、どんどんどんどんこう惹かれていって」
1人だけびっしり書かれたアンケート
その時、ちょうど土屋が出演していたドラマ「鈴木先生」(2011年)のホームページを見て、衝撃を受けたという。
佐藤健
「そのホームページを見て。
結構だから、あれって生徒がたくさんいるじゃないですか。
で、生徒が直筆でなんか色々アンケートみたいなの書いてるんですけど。
彼女だけなんかびっしり書かれてて。その時点でなんか特別じゃないですか。なんだこの子はと思って。
で、それ以来結構出てる作品気になっちゃって。
映画館に観に行ったり。衝撃だったのを覚えてます」
器用な人ではなく、すごく準備し、丁寧に生きている人
何事にも全力で挑む理由を佐藤健はこう分析する。
佐藤健
「なんかね。面白かったですよ。
きっと彼女の中ではこうしていきたいとか絶対あるはずなんだけど。
上手にそれを言語化して、上手に人に伝えるように(できない)…なんか、そういう器用な人ではないから。
だから、るろうに剣心の時とかも、こうしたいみたいなことを喋れないから。
なんか、マンガみたいに描いてきましたよ。絵で描いて。
こう4コママンガみたいに、紙芝居みたいにして、見せてきたりしましたよ。
うん。それは一番わかりやすいつって。
このぐらいの準備で大丈夫だろうって現場に挑む人もいれば、めちゃくちゃ準備してもそれでも不安だっていう人も現場にいる中で、彼女はもちろん間違いなく後者だし、丁寧に生きてるというか。うん。
適当に生きてない感じがしますね」
映画『るろうに剣心』を見て感動…1年後にオーディションで合格
林修
「土屋さんはアクション女優としてもすごいんだっていう風に世間は認識したと思うんですが、振り返ってみていかがでしょうかね?」
土屋太鳳
「アクション女優っていうと、そこまでたどり着けてなくて。
やっぱりこうスタントが出来てアクション女優なのかなって私は思ってて。
そのできる技がたまたま多かったってだけなんですけど。
私は「るろうに剣心」の1(作目)を観たときに、感動しすぎて席から立てなかったんです。
で、「なんで自分はこの作品に出られないんだろう」と。
ずっと運動してきたのにって思って。
週1回ずつ観に行ったんですよ。3回か4回ぐらい続いたんですけど。
で、その1年後にオーディションがあって。
で、感動したことだけ伝えたいって言ってオーディション受けたんですけど。
でもありがたいことに受かって」
ここでも熱意を伝えて、自らの道を切り拓いた。
佐藤健さんは努力することを大切にし、人を置いてかない人
そんな「るろうに剣心」で、俳優人生の師匠と慕う佐藤健と出会うことになる。
土屋太鳳
「その「るろうに剣心」で共演した佐藤健さんは、只者ではないなと思いました。
なんか努力することを大切にしてるし、馬鹿にしないし、軽んじないし、置いてかない?人を。置いてかないです」
林修
「僕なんか自分がすごい頑張った時、人と差があると、そこで置き去りにするのが楽しいんですけどね」(笑)
土屋太鳳「(笑)最高ですね。私すごい好きです」
林修「いや、「最低だ」ってよく言われますよ」
土屋太鳳「最低って最高に面白いですよね」
ずっと全力でやるアクションシーン…彼女だからとても魅力的なキャラになった
師匠佐藤健は、当時19歳だった土屋太鳳のアクションについてこう語っている。
佐藤健
「ただ単にダッシュするシーンとかも、こう見えなくなるまでずっと全力疾走で走ってくんですよ。
絶対使うはずないんですよ。
あんな遠くまで行ったら、別に緩めてもいいんですけど、緩めないんですよね。
だから、そういうところとか。
彼女なりにすごく…まあ、やっぱね。
あの、いい意味で不器用なところがすごくあるから。
めちゃくちゃもがきながら、どの現場でもアクションシーンをやってたりするんで。
そういうところもなんかこう、こなしている画にならないんですね、だから。
いや、間違いなく、彼女にしかできなかった。
彼女だから成立したし、あんな魅力的なキャラクターになったと思ってます」
さらに、佐藤健はアクション女優土屋太鳳がその底知れぬ体力と気力を維持する驚きの方法も目撃していた。
佐藤健
「僕結構食べる方なんですよ。驚かれるんですけど。
だから、友達とご飯とか行くと、まあ大体みんなもう会計したいけど、俺はまだ一品頼みたいみたいな。結構食べる方で。
初めてです。僕より食べる人と会ったの。
しかもお肉とかって、良いお肉って逆にずっと食べれなかったりするじゃないですか。
良い肉をずっと食べるんですよ。
食費はかさみました。遠慮する姿は微塵も見えませんでした」(笑)
幼少期
野生児 経験した色々な習い事(日本舞踊、バレエ、乗馬、ダンス)
そんな彼女の幼少期にアクションの原点があった。
林修「小さい頃は、どんなお子さんだったんですか?」
土屋太鳳
「うーん。なんか幼馴染メンバーから言われると、野生児だったみたいです。はい。
泥があったら泥まみれ。弟よりは上手くないけど、木登りみたいな」
林修「木も登られたんですか?」
土屋太鳳
「はい。木も登ってましたね。今でも見ると登りたくなるんですよね。
血が騒ぐんですよね」
林修「やっぱり基本の生活がアクションに満ちてるんですね」
土屋太鳳「そうですね。元々たぶんその、割とサッカーとか野球とか」
林修「サッカーも野球もなさってたんですか?」
土屋太鳳
「あ、えっと、サッカーと野球は弟は習ってたんですけど、私は陸上だけだったんですけど。
バッティングセンターに行って、何本打てるかとか。
そういうことをやってました。」
林修「え、バッティングセンターで実際に(時速)何㎞のボールを打たれたんですか?」
土屋太鳳「そんな…最大が(時速)120㎞で。速い方が打ちやすいんですよね、やっぱり」
林修「そうですか?120㎞当たらないですよ」
土屋太鳳「当たります(笑)」
林修
「僕の技術の問題だったんですね。
何でもできる運動神経の良さとか動体視力の良さがあっての、あのアクションシーンにも繋がるんでしょうね」
土屋太鳳
「そうですね。なんか色んなことをその習い事で経験させてくれたっていうのは、おっきかったのかなって今では思います」
幼い頃から、日本舞踊、クラシックバレエ、乗馬を習い、高校では俳優業のかたわら、部活のダンスに打ち込み、全国大会に出場するほどの運動神経の持ち主。
しかし、そんな彼女がたびたび口にするのは…「不安」という言葉。
その始まりは、幼少期の経験にあるという。
土屋太鳳
「姉と弟はやっぱり日本舞踊がすごく上手くって。全国で受賞してたりするんですけど。私だけこう次点って言って、次に進めないんですよね」
姉弟のなかで、自分はいつも劣等生だった。
両親
父はほんわり 母はセコンドみたいな人
林修
「ご両親はどんな方なんですか?なんか、結構厳しい方だってお話もチラッと聞いたことがあるんですが」
土屋太鳳
「あ、あの父はほんわりしてます。で、母はセコンドみたいな人です。
中には入らず、姉とか弟とか私が頑張ってる外で掛け声をかける。
で、インターバルになったら、こうリカバーして、また送り出す。
そんなような人です(笑)」
姉と弟の3人兄弟の次女として育った土屋太鳳だが、母の教育は、かなり厳しいものだったという。
中学まで朝は5時に起き、寝るのは7時
林修「朝は何時に起きてらっしゃったんですか?」
土屋太鳳「えっと、5時とか4時位には起きてましたね」
林修「え、何でそんなに早く起きられたんですか?」
土屋太鳳「寝るのが(夜)7時だったんです。中学ぐらいまで」
林修「とってもいいことですね」
土屋太鳳
「ホント門限も早いし、寝る時間も早いので。
ホントに「これ、どういうことだろう?」って思いながら、まあ生きてはいたんですけど。
子どもができるとそのペースが一番いいと。体にいい。
やっぱり、朝早く起きて、その飼ってた犬と姉とか弟とかとランニングして。
お腹空いてご飯いっぱい食べてから、まあちょっとゆっくりして学校行くぐらいがちょうどいいなって」
門限に遅れると「ごめんなさい」だけでは家に入れず…
林修「寝るのも早かったっておっしゃいましたけど、門限は何時だったんですか?」
土屋太鳳「5時半なんですよ、門限が」
林修「門限5時半?で、7時には寝ると」
土屋太鳳「はい」
林修「もしそれ(門限)を過ぎてしまうとどうなるんですか?」
土屋太鳳「家に入れません」
林修「はあ。入れなかったことはあるんですか?」
土屋太鳳
「あります。「ごめんなさい」だけでは入れないんですよ。
しばらくずっと外にいます。
で、暗くなって、しばらくしてから、ちゃんと自分の何が悪かったのか。
対策を練って交渉する。
そしてやっと入って。
「ただいま」って言っても、「誰ですか?」って言われます。
「あなた誰ですか?私の娘はお風呂に入ってますけど」って言われて。
怖かったです」
厳しかったけど、カッコ良かった母
林修「じゃあ、自分の家が「いやだな」と思ったこともおありなんですか?」
土屋太鳳
「でもなんかこう、納得できるというか。「だよね」と思える瞬間があるので。
なんかまあ、すごくかっこよかったですね。私が見る母は。
母親としてじゃなくて、人生の先輩としてこう会話をしてくれるので。
「越えてくなら、私の背中を越えていけ!」みたいな、そういう感じなので。
かっこいいイメージがありますね。」
不器用でも何事にも全力で一直線。
そんな真っ直ぐな生き方は自分と全力で向き合ってくれた母譲りなのかもしれない。
コンプレックスを克服できた母の言葉「太鳳は要」「目の前だけが全てじゃない」
さらに、幼少期に抱えていたコンプレックスを克服できたのも、母の言葉のおかげだった。
土屋太鳳
「で、私に何が出来るんだろう?いいとこないなって思ってたら、なんか母が日本舞踊の扇子をもってきて。
「太鳳。扇子のこの真ん中の部分が要(かなめ)っていうんだけど。
これがないと扇子って、扇子になれないんだよ」って。
「だから太鳳はこの要(かなめ)だからね」って言われた時に、子供ながらにすごく嬉しくて。
それをなんか今でも覚えてます。
「家族の要だからね。だから必要とされている」っていう意味で。
あとはその、「目の前のことに必死になりすぎるけど、目の前だけが全てじゃないよ。ちょっと隣に行けば、違う世界があるから」っていうのはずっと言われていて。
嬉しかったし、そのコンプレックスを乗り越えられるきっかけになった」
林修「なんかホント名セコンドとして。ホント導いてくださったんですね」
土屋太鳳「はい。そうです(笑)」
あなたが必要とされる世界が必ずある。
母に励まされて育った彼女は、小学4年生の時に運命的な体験をすることに。
学校の演劇で誰もやりたがらなかった酔っ払い役を任されたのだが、これを全力で演じ切ると、これを見ていた同級生の父母たちから絶賛された。
自分に初めて自信を持つことができた演技の世界。
土屋太鳳の生きる道が決まった瞬間だった。
人生の粒を大切にすれば、人生全体が良いものになる
林修
「そのカッコいいとおっしゃったお母様に育児のことなんかを相談される事はあるんですか?」
土屋太鳳
「ありますね。私はその今回家族が出来て、それをすごく実感していて。
親の道は子供の滑走路になるって言われた時があって。
その時にすごくこう納得した時があったんですよね。
だから自分もしっかり、人として地に足を付けて、色んなことに挑戦していきたい」
林修「仕事のことで相談された時にも何か記憶に残ってるアドバイスはおありですか?」
土屋太鳳
「必死になるとホントに周りが見えなくなるから。
じゃなくて、人生の粒を大切にしなさい。
人生の1つ1つの粒をたいせつにすれば、人生全体が良いものになるはずだ。
人生の粒。今を大切にしなさい。
「今でしょ」じゃないけど。ホントに。
そうなんです。今でしょなんです。
私の家は「今でしょ」でできてますね」
林修「そんなことはないと思いますけど」
土屋太鳳「いや、ほんとに」
今という人生のワンシーンを丁寧に生きる。
女優として母として。これまでも。そして、これからも。