【日曜日の初耳学】俳優・本木雅弘さん×林修(2024年11月17日放送)

俳優・本木雅弘さん

1982年 16歳 アイドルグループ「シブがき隊」で歌手デビュー
1988年 22歳 シブがき隊 解隊後俳優業に専念
1992年 27歳 映画「シコふんじゃった。」で当時最年少で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞
2008年 本木雅弘が自ら企画し、出演した 映画「おくりびと」で、日本映画史上初・アカデミー賞外国語映画賞を受賞

他にも、その受賞総数は、国内外合わせて、103冠

 

林修「同い年なんですね(58歳)。驚きました」

本木雅弘「ずーっと年上の方だと思っていたぐらいな感じ…」

実は、共に1965年生まれ。来年(2025年)還暦を迎える同い年
林修 1965年9月2日生まれ
本木雅弘 1965年12月21日生まれ

他にも林修さんと本木雅弘さんの2人には共通点が…

  • 1965年生まれの同い年
  • 身長174㎝
  • カレーが好き
  • エゴサーチが好き
  • 友達がいない

 

林修「あと、あまりお友達がいらっしゃらないという…」

本木雅弘
「そうですね。まあもちろん、お世話になってる方、知り合いの方、たくさんいるんですけども。

「飲みに行こうぜ」みたいな。「飯食いに行こうぜ」みたいな。
っていうので、会う友人っていうのはいないですね」

林修
「あ、もうそこは本当に同じですね。
でも、元々3人で一緒に活動(アイドルシブがき隊)されてたわけですよね?
今振り返るとやっぱり、あれはビジネス的な繋がりだったなぁと?」

本木雅弘
「まぁそうでしょうね(笑)ウソウソウソ。じゃないですよ。まさしく青春なんですけど。」

 

  1. 15歳 デビュー
    1. ドラマ「2年B組仙八先生」でデビュー
    2. 自宅からファンの女の子と一緒にTBSへ
    3. 当時のドラマ映像を観て
  2. 16歳 シブがき隊を結成
    1. 「スシ食いねェ!」で紅白は不本意だった!?
  3. 俳優・小泉今日子さんから見た本木雅弘さん
    1. ①友達が少ない
    2. ②びっくりするほど自己評価が低い人
    3. 本人談「誰かから「認められたい!」と思って生きている」
  4. アイドルとしての活動
    1. 大人気!「ザ・ベストテン」に93回出演
    2. アイドルは職業の1つ…偽物意識「こんなに空っぽのままでいいのか」
    3. 小泉今日子さん「ちょっと苦しそうだった」
  5. 俳優としての活動
    1. 恩人・周防正行監督
    2. 低予算の「シコふんじゃった」…まわし1つでずっと待機
    3. NHK 大河ドラマ「徳川慶喜」の主演…長男誕生で子育ても同時に
    4. 映画「日本のいちばん長い日」 天皇を演じる…樹木希林さんの言葉に背中を押され
    5. 映画「おくりびと」…実際に納棺の仕事を体験し、本物の瞬間を知る
  6. エゴサーチが好き
    1. 掃き溜めのようなコメントの中にキラッと光る指摘
    2. アンケートはネガティブなものだけ集めて…
  7. 29歳 結婚 「内田裕也さんに結婚の挨拶」
    1. 全く目を合わせず、言わせない攻撃
    2. 夜襲され…内田裕也さんを殴った!?
    3. 内田裕也さんの言葉も心に響く
  8. 人生最大の助言者・樹木希林さんの言葉
    1. 自分のダメさも認めて、それを面白がっていく
    2. 子を育てると自分が育つ
  9. 親友 小泉今日子さんと最新映画で恋人役

15歳 デビュー

ドラマ「2年B組仙八先生」でデビュー

シブがき隊がデビューした1982年は「花の82年組」と言われるほど、アイドル全盛期。
堀ちえみ、中森明菜、早見優、松本伊代など人気アイドルが数多くデビュー。

本木雅弘さんもこの年に華々しくデビューしたと思われていたが、実は芸能界デビューはその1年前、15歳の時。

大人気ドラマ3年B組金八先生の「桜中学シリーズ」の4作目となる「2年B組仙八先生」への出演が、芸能界デビューだった。

その撮影当時は埼玉の実家から、スタジオがある東京の赤坂TBSまで電車で通っていたという

1980年 14歳~ 事務所に応募
1981年 15歳~ 芸能界デビュー ドラマ「2年B組仙八先生」に出演
1982年 16歳~ シブがき隊デビュー

 

自宅からファンの女の子と一緒にTBSへ

林修「だって、めちゃくちゃキャーキャー言われたわけでしょ?」

本木雅弘
「そうですね。高崎線に乗って来るんですけれども。
大体いつも十何人かの女の子を自分の家の門から引き連れたまま、なんか一緒に電車に乗ってTBSまで来るという。
で、そのTBSの建物の坂の所には、また沢山の女の子達が待っていて

林修「自宅がファンにバレていて、ファンを引き連れての通勤だったんですか?」

本木雅弘
「そうですね。アイドル大抵そんな雰囲気だったと思いますよ。
でもなんかそれに、すごい違和感を感じてました。
なぜ自分たちみたいな輩に(笑)…そんなに騒げるのかっていう。
ちょっとそういう風に冷静に俯瞰しているというか。
ちょっと引いてる自分もいましたね」

 

当時のドラマ映像を観て

後にアカデミー賞俳優となる本木雅弘さんの当時ドラマ初出演は、15歳の時。
ドラマ「2年B組仙八先生」。
第1回「教科書なんか焼け」の放送は1981年4月17日。
このドラマには当時同じく15歳の薬丸裕英さんも出演していました。

(当時のドラマの映像が流れる)

林修「ご覧になって、ご自身の演技いかがでしょうか?」

本木雅弘
「いやいやもうこの先話せませんよね。気取りようがないですもんね。ちょっと見れませんよね」

林修
「まあまあまあ。ちょっとその、まあ演技については「演技お上手ですね」とはちょっと言いづらいですけどね…」

本木雅弘
「そうですよね。薬丸さんの迫力の方がよっぽど…。
あれ15歳の声か?って感じですよね」

林修「ちょっと悪そうですね」

本木雅弘「うーん、まあ。薬丸さんはちょっと若干そういう本筋ですね」

 

16歳 シブがき隊を結成

「スシ食いねェ!」で紅白は不本意だった!?

このドラマでの共演をきっかけに…
翌年1982年5月にシブがき隊が結成

すると…
デビューからわずか7か月後には、紅白歌合戦に出場(1982年12月)。
さらには、日本レコード大賞最優秀新人賞をを受賞。
瞬く間にトップアイドルに。

1981年   芸能界デビュー ドラマ「2年B組仙八先生」に出演
1982年5月  シブがき隊デビュー
1982年12月 紅白歌合戦出場、日本レコード大賞最優秀新人賞受賞

そんなシブがき隊の大ヒット曲と言えば、デビューから4年後にリリースした楽曲「スシ食いねェ!」。
レコード発売前にもかかわらず、紅白歌合戦で披露された数少ない楽曲。

林修「1986年に代表曲とも言える「スシ食いねェ!」がリリースされたと」

本木雅弘「どうしてそれが代表曲なの…(笑)」

林修「代表曲っていうご認識ではないと?」

本木雅弘「まあ、でもみなさんそうなんですかね?」

林修
「まあ僕もちょっとそういうところあるんですけど…。
あれ、コンサート直前に急遽作られた曲なんですか?」

本木雅弘
「これね、確かね。
まあ、薬丸さんが何らかの怪我で、コンサートに出られなくなって。
布川さんと2人でね、いろいろ繋がなきゃいけないみたいな感じで。
で、主に私は(制作に)参加してません。

これ布川さんが、その当時のバックバンドのシブ楽器隊っていうんですけど…っていうバンドのメンバーと作った曲ですね。
私はそれを歌わされたというだけです」

林修
「なんかその、先ほども代表曲っていう言い方をやめてくれとおっしゃって。
そして、作られた経緯も自分は関係ないと…距離を取ろうとされてます?」(笑)

本木雅弘
「いやいやいやいや。まあ、ちょっと私も生意気なところがあったので。
どうしてこんな曲を、こんなに全面的にやらなきゃいけないのか。で、これで紅白もでるのか」っていう感じでね。何も楽しくない…みたいな感じで。

うん。まあ、ちょっとね。腐ってたところはあったかもしれないですね。

で、それで確か、当時まあチェッカーズ。
スゴク皆さんのことを私も慕っていたので。
「寿司ですよ?」って言って。「ネタ歌うんですよ?」って言って。「衣装これですよ」って言って。

まあ、泣き崩れんばかりな気持ちでそれを訴えたと。

「じゃあまあ、今日飲み行こう」ってこう連れていかれたりみたいなね。慰めていただいたみたいな」

林修
「言葉は大変選んでらっしゃいますけど、本当にあの歌(「スシ食いねェ!」)は不本意だったんですね?(笑)」

 

俳優・小泉今日子さんから見た本木雅弘さん

林修
「で、実はですね。
今回、デビュー当時から現在に至るまで本木さんのことをよくご存じの方にインタビューが叶いましたので、ご覧ください」

本木雅弘「友達いないのに?」

そう。友達がいない本木さんにも唯一友達と呼べる方が花の82年組にいました。
それが…小泉今日子さん。

本木雅弘「あぁ~ごめんねぇ」

本木雅弘さんんと同学年で、共に1982年歌手デビュー
16歳の頃から、テレビやライブと急がしい日々を共に駆け抜けた、まさに戦友。

 

①友達が少ない

小泉今日子
「もう40年以上(の付き合い)?
お互い気になって、「ああ、元気にしてるな。あ、こんな活動しているんだ。私も頑張ろう」って思える幼馴染のようなものだし。
ちょっともう遠い親戚感みたいな。

最初は大勢で走ってて。なんか知らないうちにどんどん減っていって。
最後に「あ、本木さんまだいた」っていう感じの感覚がすごくあるんですよね。
お互いに多分。
だから、ある意味親友だと思うし。

私はたくさんお友達いるんですけど(笑)。
えーっと…本木さんはすごく(友達が)限られてるかなって思います(笑)。
あのそこがすごく素敵なところなんですけど。

常にこう悶々と仕事と向き合ってるっていうのがたぶん本木さんの生き方のスタイルだと思うし、それがあるからああいう(演技での)表現が出来るんだと思うんですよね。

でも本当にたぶん友達は少ないと思います(笑)
仲が良い人っていったら、(妻の)也哉子さんしか思い浮かばないです(笑)」

 

②びっくりするほど自己評価が低い人

そんな小泉今日子さんが、本木雅弘さんと初めて会ったときの印象は?

小泉今日子
綺麗な子なって思いました。
こんな綺麗な子いるんだなって思ったのが最初の印象で。

すごく綺麗だし、真面目だし、色んな才能があるのに。

びっくりするほど、みんなが考えているよりも、もっともっと自己評価が低いんですよ。 本木さんが。

だから、常になんか後悔してるし。常に悩んでるし

人にもすごい気を遣う人なんだけど。
なんかもう気を遣いすぎて、わけが分かんなくなって、ずーっと喋ってるとか。(笑)

で、なんか話してる間に不安になるようで、「大丈夫?」って言うから。
「大丈夫だよ」って。「全然平気だよ。大丈夫だよ」っていう感じだったり。

自分だったら、あんな綺麗な顔してたら、もっとなんかもう(自信)満々で生きれそうって感じするのに。はい。

そこがでも魅力だから。
なんか面白いバランスで本木雅弘さんっていう人が出来上がってるんだなとはいつも思いますけど」

 

本人談「誰かから「認められたい!」と思って生きている」

林修「お話しお聞きになっていかがですか?」

本木雅弘
「いや~申し訳なかったですね。
もう今本当にツアーで忙しいから。
その唯一小泉さんしか友達がいない私で(笑)
スタッフの人が困ってお願いしたんでしょうね」

林修「自己肯定感が低いっておっしゃってましたよね」

本木雅弘
「まあ、そうですね。やっぱりもうそれは、とにかくもう、生まれついての分かんない…凡人コンプレックスっていうか。

まあ、体裁を気にしているっていうのは基本的にありますけれども。

誰かから小さくてもいいから、なんか丸をもらいたいっていう風に…「認められたい!」と思って生きているっていうのは。

そのことがいつも悩ましいんですけれども。
こういう性格どうしたらいいんでしょうかね?」

アイドルとして一時代を築き上げ、アカデミー賞を受賞した世界が認める俳優なのに、本木雅弘の本性は超ネガティブ
そんな彼を救ってくれたのが大先輩である義理の母・樹木希林さんと家族の存在。
本木雅弘さんはネガティブさと向き合いながら、どうやって成功したのか?

 

アイドルとしての活動

大人気!「ザ・ベストテン」に93回出演

林修
「あのまあ、当時大人気だった「ザ・ベストテン」。93回も出演されてるんですね。すごい回数ですね」

本木雅弘「あ、そうなんですか」

(当時の「ザ・ベストテン」ハプニング映像。歌唱中、本木雅弘さんのマイクのコードが照明に絡まってしまい、コードがどんどん短くなっていくのを、黒柳徹子さんが照明を逆に回転させてほどいている映像が流れる)

林修「こういうこと(ハプニング)が頻繁に起きる番組だったので」

本木雅弘
「そうですね。そこをどこかでね、ちょっと楽しみにしてるところもありましたね。

事務所の中ではちょっと半分お笑い担当みたいな感じのグループではあったと思うんですけれども。

まあ、一応その時代の歌謡曲としては、ちょっと1つのこう(音楽)ジャンルっていうか、個性があったなっていうことを今振り返ると思いますけども」

林修
「じゃあ、お話を聞いてると、気に入らないのは「スシ食いねェ!」だけなんですね」(笑)

本木雅弘「(笑)まだ「スシ食いねェ!」にこだわる(笑)」

 

(スタジオで)

ハライチ澤部「メチャクチャすごかったですか?人気」

田中律子(小学生の頃から大ファン)
「メチャクチャすごくて。コールカードとか買いに行ったりとか。
あの、歌があるでしょ?
歌の後に、みんなで「L・O・ V・E」とか掛け声を…コールをするんですよ。

私たち(当時)ラジカセだったから。
ラジカセで、友達のお家で、みんなでカセット聞きながら。
「まさひろ命さ!本気で惚れたぜ♪」ってそういうコールを…。
コールカードに書かれたやつを覚えるんですよ。

で、小学校と中学校時代も、そのシブがき隊ファンと。
で、その後にすぐ少年隊が出てきたでしょ?
少年隊が出てきて。で、そこからチェッカーズが出てきたんですよ。
もうこの三つ巴の戦いで」

ハライチ澤部
「その三つ巴の時に、確かに「スシ食いねェ!」歌われたら…。
ヤバいじゃん。劣勢じゃんウチってなりますよね」(笑)

 

アイドルは職業の1つ…偽物意識「こんなに空っぽのままでいいのか」

林修
「いきなりアイドルと俳優と。こう2つをやらなきゃいけなくて。
その大変だったんじゃないんですか?」

本木雅弘
「それはそうですね。でも、こうお芝居と歌う事とかっていうこと。
あんまり分けてはいませんでしたよね。
やっぱり1つアイドルっていうのは、職業の1つというかね。

徐々に自分たちも、大人にコントロールされながら、商品としての自分たちが架空だけど存在してるみたいな。
不思議ななんか捉え方はしていたので。
その役割を懸命に演じていたっていう部分はありますね。

うーん、っていうか、気持ちが色々追いついて行かない所はありましたけどね。
なんかずーっと自分の中の偽物意識っていうかね。
こんなに空っぽのまま、形ばっかりでいいんだろうか?っていう。

でもこうなにか自分でこう…うーん…分からない。
読書したり、勉強したり、何々を見に行くなんていう時間もないし」

 

小泉今日子さん「ちょっと苦しそうだった」

人気ばかりが先行し、自身の実力を超えた周りの高い評価に戸惑う日々。
戦友・小泉今日子さんも当時そんな本木雅弘さんの苦悩を間近で見ていました。

小泉今日子
「そうだな…ちょっと苦しそうだったかもっていう。
青春をなんていうか、犠牲にして
私たちってなんかその日々があって。
それはそれでなんか楽しいけど。
やっぱり、何かを諦めてたりとかっていう感覚もみんなどっかにあったと思うので。
自分がこうしたい、ああしたいみたいな表現がすごくし辛いから、アイドルの時って。
なんかちょっと苦しそうに見えたけど。

でも、その役者さんになってからは、自分の好きな世界に自分を置けるみたいな風になったんだなっていう風に思って見てましたね。うん」

 

俳優としての活動

恩人・周防正行監督

演技力を認められ、本当に求められる俳優になりたい。
そんな一心で、どんな役にも体当たりで挑むことを決意した。

それを後押ししてくれた恩人が、名作映画「Shall we ダンス?」を生み出した監督・周防正行さん

周防正行監督とタッグを組んだ1989年の単独初主演映画「ファンシイダンス」では、アイドルのイメージが強かった本木雅弘がなんと…自身の髪を剃って、坊主姿に。

低予算の「シコふんじゃった」…まわし1つでずっと待機

さらにその2年後、周防監督との2作目映画「シコふんじゃった」では、大胆なまわし姿で熱演した。

本木雅弘
「その当時の自分としては、どこかで自分の殻を破っていきたいとか。
挑戦したいっていう気持ちもありましたから」

林修「ちょっと変わらなきゃっていう意識はお持ちだったと?」

本木雅弘
「うーん、どこかであったんでしょうね。
で、まあ何か自分が脱ぎ捨てていって。
一生懸命チャレンジしようとしていたっていうところはありますね。

まあでもとにかく、「シコふんじゃった」はもう現場でもその、まわし1つっていうのはキツいですよね。

役者も意外とぞんざいに扱われていて(笑)。そうですね。
まわしのまま、ずーっと待たされて、一向に進行が見えないまま。
まわしをして、待機してたままで終わった…っていう日もありますし」

林修「なかなか苦労もあった現場だったんですね」

本木雅弘
「そうですね。
まあだから、あのーそういう低予算で、カツカツの中で。
みんなが本当にただ映画に対する、作品に対する愛情だけでなんとか乗り切ったっていうものが世の中にでて評価されると、まあ喜びもひとしおっていうところはありましたね。

あれでだいたいなんか、シコふんじゃった。成金というかね。
スタッフの人たちもそういう評価される作品に出てると、次が繋がるんですよやっぱり」

この映画「シコふんじゃった。」で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞
自身の殻を破り、本物の俳優としての第一歩を踏み出すことができたのだ。
そしてここから、アメリカのアカデミー賞を受賞する世界的俳優に登りつめていく。

 

NHK 大河ドラマ「徳川慶喜」の主演…長男誕生で子育ても同時に

映画「シコふんじゃった。」をきっかけに、着実に俳優としてのキャリアを重ねていく一方で…

1995年 29歳の時、内田裕也さんと樹木希林さんの長女・也哉子さんと結婚
1998年 32歳の時には、大河ドラマ「徳川慶喜」で主演を務めた

しかし、この時…

林修
「ご長男(UTAさん)が生まれた直後で、育児をしながらの収録だったんですか?」

本木雅弘
「そうですね。重なる時は重なるもんでっていう状態だったんですけれども。
まあ、大きな作品を1年間背負うっていう初めての体験親になるなんか未知の子育てが始まるっていうことが重なって追い込まれた…追い詰められたことによって、乗り越えられたかなっていう試練ではあったかもしれないですね。」

 

映画「日本のいちばん長い日」 天皇を演じる…樹木希林さんの言葉に背中を押され

そんな本木でも、その役を演じるかどうか悩んだという作品がある。それは…昭和天皇を演じた映画「日本のいちばん長い日」。

林修「天皇を演じるっていうのは、いろんな思いが生じますよね?どうしても」

本木雅弘
「やっぱりね。簡単にはお受けできないっていうのは、ありましたね。
まあ、それまでの作品で、昭和天皇が具体的に出てくるっていうのはあんまりなかったんですね。過去の作品では。
後ろ姿だけとか、なんとなく御簾(みす)の向こうにっていうだけとか」

林修「やっぱり描くの避けてきた面もありますもんね?」

本木雅弘
「そうでしょうね。ええだから、そういうことでも、なんかちょっと重大事すぎるなぁっていうのでね」

林修「なんでもその時は、その義理のお母さんの樹木希林さんにご相談されたんですか?」

本木雅弘
「そうですね、さすがに。
「まあ、あなたの性格というか様子としては、まあちょっと生活感が見えづらくて。そういったものがどこかこう浮世離れした昭和天皇に通ずるものがあるかもしれない。
監督もそれを思ってあなたにオファーしたんじゃないの?」っていう。

私には理由がなんか見える感じがするからしっくりくるけどね」っていう感じで、まあ背中を押してくれたっていう感じですかね」

すぐそばに頼れる大先輩・樹木希林がいてくれたことが、彼の俳優人生を大きく好転させていく

 

映画「おくりびと」…実際に納棺の仕事を体験し、本物の瞬間を知る

そんな本木雅弘の代表作と言えば…
日本映画史上初となるアメリカ・アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」。

亡くなった方を清め、棺に納める納棺師を描いたこの作品は、自ら発案し企画に携わり、十数年をかけて映画化させたもの(原作「納棺夫日記」著者:青木新門)

 

林修「ご自身の役者人生にとっては、どんな作品ですかね?」

本木雅弘
「この映画に関しては、まあ自分が発案者でもあったっていうこともあって。
すごくその、現実行われている納棺っていうことへの興味もあったし、こだわったんですね。

ですから、実は山形で、実際の納棺のチームの中に入って
あるお婆さんの遺体を拭かせていただきました

メガネをかけて、変装して。
まあ、とにかくその触れたご遺体が、鉄のように冷たかったんです。
で、それが死の現実。
この2月の山形の冷たい空気と同じ冷たさなんですよ。
暖房で温まるわけじゃないんですよ。

まあそういう一応自分としてはこう実感が伝わってくる体験をしたっていうことは、ものすごく演じることの軸にはなったですね。

だから、「自分はあの本物の瞬間を知っている」っていうことが1つの自信になったので。」

本物を体験することが演技への自信となり、作品の中で放たれる唯一無二の存在感となっていたのだ。

 

(スタジオで…)

田村淳
「僕あの、数少ない演技経験の中で、本木さんとガッツリ組んだ映画があるんですよ。
巌流島-GANRYUJIMA-」っていう映画で(2003年)。
本木さんが宮本武蔵で。
(僕は)宮本武蔵を巌流島まで連れて行く船の船頭なんですよ。
佐々木小次郎じゃないです。
船のシーンなの。その巌流島に行くまでの。
だからずーっと本木さんとの。ガッツリ。
でもそん時でもね。武蔵なんですよ。もう完全に宮本武蔵。
だけどその、カットがかかって。その寒い冬の撮影だったんですけど。
ストーブがあるところに行くと、もうそれはそれはそれは気遣いの本木さんで。
「もうスタッフさんもほら寒いからこっち」つって。

でも始まったらもう怖いぐらいの武蔵になって。
俺もう、そのギャップにずっと足が震えてたの。その撮影の時。
だって武蔵なんだもん」

 

エゴサーチが好き

自らをネガティブで自己肯定感が低いという本木雅弘だが、大河の主演という大きなプレッシャーがかかる仕事を意外な解消法によって乗り越えていた。

掃き溜めのようなコメントの中にキラッと光る指摘

林修「エゴサーチがお好きなんですか?」

本木雅弘
エゴサーチ好きですね。
まあ、そんなこと言うとね。もちろん今誹謗中傷のね、基本的にはあってはならいし、気になる所ではあるんですけれども。

そういった掃き溜めのようなコメントの中にも、キラッと光る(笑)キラッと光る指摘をね見つけたりすると。

「ああ、分かる人には、やっぱり分かってしまうんだな」とか。
そういうことで、こう自分への戒めにもなるし。
ありがたいって思う時もあるんですよね。ええ」

 

アンケートはネガティブなものだけ集めて…

本木雅弘
「まあ当時別にこういうこと(インターネット)でサーチはしてないですけれども、NHKにはたくさん要するにアンケートっていうかが具体的にFAXなりで届くわけですね。

ネガティブなものだけ見せてください」っていう風に言って。

で、そのネガティブなものを集めて。
ああ、こう見られてんだ。こういう風に怒られそうなんだとかここはダメなんだみたいなことを見ながら、翻していこうみたいな」

林修
「僕でもこの授業の時にアンケートって必ず取るんですけれども、あの褒め言葉って何の役にも立たないからいらないんですよね。
非難の言葉だけ欲しいっていう。それはちょっと分かりますね」

本木雅弘「そうなんですよ。はい」

林修「そこにおっしゃるように、改善ポイントが隠れてる時も多いですもんね」

 

29歳 結婚 「内田裕也さんに結婚の挨拶」

全く目を合わせず、言わせない攻撃

本木雅弘さんが結婚をしたのは、29歳の時(1995年)。
一方、也哉子さんは当時まだ未成年の19歳
2人の結婚に世間はざわついたが、本木の胸を世間の目よりもざわつかせていたのが…也哉子さんの父・永遠のロックンローラー 内田裕也さん。

林修
「内田裕也さんにお嬢さんをくださいって言いに行くのってメチャクチャ勇気がいる事なんじゃないかと勝手に思ってたんですけども」

本木雅弘
「そうですよね。まあもちろん、私は正直その挨拶は必要なのか?っていう風に思っていたところもあるんですけれども。

裕也さんの方にその日時オファーしたら、「とにかく事務所社長と来い」と。「一人で来るな」っていう。(笑)

きっと何を言われるんだっていうことは分かっていたんだろうと思うんですよね。

銀座の料亭を予約して。事務所社長と出向いて。

それで裕也さんが全くこちらに一筋も目を合わせないで。
ずーっと違う業界の話、旅の話。いろんなもう別の話をして
とにかく、言わせない攻撃なんですよね。

で、言わせない攻撃で、帰ろうとするのかと思ったら、「ちょっと連れてきたい店があるから」って。「もう一軒って言われて。「えー…はい」って言って。

あるバーの奥のソファー席の所に行って。
で、そこでまた同じように(別の話を)延々。
場所が変わっても終わらない。

それで、最後の最後に、もうお開きってなりそうなところで、「言う!」っていう感じの最大限にアピールした時に、(裕也さんに)「わかってるよ。ヨロシク!」って言われて。

もうそれだけ。うん。

だから「もう分かってるよ。ヨロシク。ロックンロール」ってついてないけど、もうその感じで。その感じでバッてこう抑えられた」

その2軒目に行ったバーには内田裕也さんのある想いが込められていました。

本木雅弘
「それが実は、連れていかれたのが、裕也さんがかつてジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんと(3人で)会っていた場所なんですね。

どこかで、なんかそういう素敵なことができるお前らでいて欲しいっていうメッセージが込められたのかなっていうのは、(裕也さん)らしいなっていうか」

林修「カッコイイ演出をなさるんですね」

本木雅弘「そういう感じでしたね」

 

夜襲され…内田裕也さんを殴った!?

林修
「その内田裕也さんをなんでも殴ったことがあるってお聞きしたんですけども」

本木雅弘「またこれもね。話が色々アレなんですけども」

林修「それは単に話に尾ひれがついてるだけで、実際には殴っていないと?」

本木雅弘「あのーやりましたけどね」(笑)

 

それは、今から23年前。本木家族が樹木希林さんと二世帯住宅で暮らしていた時のこと。

本木雅弘
「ま、普段もちろん(裕也さんと一緒に)暮らしてないんですけれども。
私たちのその二世帯住宅の所に夜襲…(笑)ある種ね」

林修「普通舅に夜襲っていう言葉使わないですから」

本木雅弘
「そうですよね。岳父(がくふ)が夜襲に来るわけですよ。
まあ、ちょっと鉄格子の結構頑丈な(門)。
それをガタガタガタガタ揺らしてピンポンピンポンしながら。
本木、也哉子、いるか?開けろ!!」っていう風に」

林修「まあ、ちょっとご近所にもあんま見られたくないですね」

本木雅弘
「そう。そうなんですよ。
それで、「本木!おい聖徳太子!いるんだろ!!」って言って。
その当時(ドラマで)その聖徳太子の役やってたりしたんで。
「あっ、見てるんだ…」みたいな。

(2階が自分たちで、)1階が樹木さんたちの住居なんですけれども。
そこからなんか、2人がなんかいさかってる声が聞こえてくるんです。
そうそうそう。上にね。

それでまあ、こちらは実はその子供が風邪をひいて熱出してて。
そのことですったもんだしてたんですね、夫婦で。
っていうのでもう気になっちゃって。

で、私がエレベーターで降りて行って。
揉めてるのを止めるのも含め、「静かにしてください」っていうので。
「子供が熱出して、ちょっとバタバタしてるんですよ」って言って。
(裕也さんが)「そんな子供の熱ぐらいで、ヌクヌクしてんじゃねぇ」みたいな。
まあちょっと…」

林修「いかにもおっしゃりそうな」

本木雅弘
「まあ、そういうようなトーンで。
まあ、それを樹木さんも面白がっちゃってるんですよ。

「そうね そうね そうね そうね」ってこう。
どちらの言い分も「そうね そうね」って言いながら。

やっちゃいなさい」って言って。
間に「やっちゃいなさい」をはさむんですよね。

で、それをこう、まあなんか引きはがしたり何したりとかっていうのの中、勢いで、こう手が当たってしまうとか…。
うーん、狙ったところもありますけど。(笑)」

林修「最後どうなったんですか?それは」

本木雅弘
「まあ、それで。裕也さんのお仲間の人たちが集団でワッと来て
裕也さんに何したんだ?」っていうので。
樹木さんのところに来たんですね。

で、それで一応私が対応しようと思って。

裕也さんの話をっていうその勢いを受けているときに。

ちょっとこうなんか(裕也さんの仲間が笑って)吹き出すのを飲んだみたいな表情をしたので、「え、何?」って思って見たら。
後ろで樹木さんが鉄パイプを持って、私をこう守ろうとしていたんで」

 

(スタジオで)

田村淳
「でも裕也さんの周りにいるロックンローラーたち、俺会ったことあるんですけど、めちゃくちゃ恐いからね。ムチャクチャ恐い」

 

内田裕也さんの言葉も心に響く

本木雅弘
「でもね。やっぱり、現実そうなんですけど。
裕也さんの時々こうポロッとなんか言う言葉っていうのは、樹木さんと同様、響くんですよ、こちらにも。

それでよく、樹木さんと私たち家族。子供たちも含めて。

(裕也さんが)「お前らの善人っぽいイメージっていうのはな。俺という悪がいるから成立してるんだ。感謝しろ!」って言うんです。(笑)

樹木さんがなんか「あなたより裕也の方が、よっぽど清々しいわね」ってよく言われてましたよ。はい。私のねじれ方よりね。ええ」

 

 

人生最大の助言者・樹木希林さんの言葉

自分のダメさも認めて、それを面白がっていく

林修「今でも覚えていらっしゃる希林さんの言葉とかありますか?」

本木雅弘
「妻の也哉子の方が母からいつも言われてた言葉っていうことで言っていた
おごらず 人と比べず 面白がって 平気に生きればいい」っていうね。
何事も面白がるっていうのは、こう楽しむっていうのと違うんですね。

だからその、面白がるっていう言い方がいつも樹木さんの場合肝ですよね。

あのーお芝居をやってて、自分がセリフ間違ったりすると、「えーっと…あのー…役の名前なんて…えーっと…はや、はや、はやしさん…ああ、はやしさんじゃない、間違っちゃった。ああ、すいません」とかって言っちゃったりするじゃないですか。お芝居だと。

だからそれ(芝居)を止めないでねっていう。
止めないでそのまま続けていくっていうことの方が、思わぬリズムが生まれたりして、空気が変わる面白さがあるじゃないっていう。

まあだから、一事が万事そういう考えのところがあったので。
全て良かったことにする方向に持って行く。それが面白がるっていうこと
だから自分のダメさも引き受けて認めて、それを面白がっていくみたいなことに繋がる。

で、その「平気に生きればいい」っていうのも、平気「で」じゃない所がポイントなんですね。
平気で生きればいいって言うと、なんか開き直ればいいじゃないって聞こえますけど。

(平気「に」生きればいいって言うと、)ブレずに自分の信念みたいな。
誰かの評価、大半の基準っていうことじゃなく、それに乗るんじゃなくて、自分が思うところをブレずにその信念に従っていけば、別にそれはアピールすることなく、平気でごく普通に「これが自分です」っていう姿勢でいればいいのよっていう。

もういろんな意味が込められた言葉かなって思って。
それでずいぶん、いい意味で教育されたなってところもあって。
本当にもう人生の最大の助言者でしたね」

 

子を育てると自分が育つ

林修「でもやっぱり、役者人生の上で、家族って大事ですよね?家族の支えも」

本木雅弘
「いや、それはそうですよ。やっぱり、あの樹木さんも言ってましたけれども。
「まあ、どんな形であったとしても、子を育てると自分が育つ」。
で、それは別に子供じゃなくてもいいんですよ。

植物でもいいし。他の生き物…ペットでもいいんですよ。
とにかく、育てる
それがなければ、その日常生活がなければ、役者っていうのも成立しないっていう考えの人だったので」

林修
「でもなんか、お話伺ってると、希林さんの影響を受けたっていうだけじゃなくて。
今の言葉通り、希林さんが本木さんを育てられた部分もあるのかなっていう気がしてきましたね」

本木雅弘「それはそうだと思います、本当に」

 

親友 小泉今日子さんと最新映画で恋人役

俳優としてのアドバイスに加え、人としてどう生きるのかを家族との生活の中で学ぶことができた。

そんな本木雅弘の最新作の映画が倉本聰原作・脚本の映画「海の沈黙」。

展覧会で起きた贋作事件を機に、本木雅弘演じる天才画家の過去と苦悩を描くヒューマンドラマ。

この作品で、本木雅弘の昔の恋人役を小泉今日子が演じている。

実は倉本聰は、元々本木と小泉を想定した「当て書き」で脚本を制作。
この2人でないと描けない物語だったという。

 

小泉今日子
「かつて付き合ってた時間を想像するわけじゃないですか。頭の中で。
その時にちゃんと本木さんの姿が。
10代、20代の姿でちゃんと思い浮かべられるっていうのは、なんかすごい長い付き合いだからできるんだなぁって思ったり」

10代の頃に知り合い、その歴史がある2人だからこそ描けた物語。

林修
「あの実は僕ももう拝見したんですよ。あのシーン本当に印象的で。
あの本木さんと小泉さんの手が触れ合う。
もう明らかに若い人の手じゃないんですよね。
でもあの両手がこう一瞬触れ合う。何なんでしょうね。あの瞬間の魅力」

本木雅弘
「まあ、映画の中の設定として、まあ30云年ぶりの再会っていうのはありましたけども。
私と小泉さん自身はお互いに15~16でデビューして。
42年来のまあ同じこの芸能界を生きてきた同志っていうその歴史がありますからね。
それがうまく役とも交錯して映り込んでるというか」

 

デビューから43年。
お互いの活躍を祈りながら、共に走り続けてきた2人。
年齢を重ねた今だからこそ、小泉今日子が感じる本木雅弘の魅力とは…

小泉今日子
「何て言うんでしょう…いつもすごくこう前に跳び箱みたいなのが積み重ねられてて。
恐れとか、恥ずかしさとか、いっぱい積み重ねて。
その跳び箱がすごく高くなってるんだけど。
最後には、あの踏み台だけでパーンって跳び越える。
で、そういう時に、誰にも敵わないようなお芝居をされるなっていうのが本木さんのイメージ。

抽象的かもしれないけど。

なんか私たちは、その跳び箱が跳べそうもないから、恐れを抜いて、なんか恥ずかしさも抜いて。
で、低くして跳ぶみたいな感じなんだけど。

ドンドン高くして。
もうすごい助走でパーンって跳び越えるみたいなのが、本木さんの魅力」

それは若き日に本物の俳優になりたいと願い、逃げずに体当たりで挑んできた本木雅弘の生き様そのもの。

本木雅弘
「やっぱりある種、あの完璧を目指すとかそうなっていくことではなくて。
自分の中のほころびみたいな。
欠点さえも味わいとして晒すことができるとか、上手く取り入れていく事が出来るっていう。
それが、こう歳とることの醍醐味というか。
今になって思いますね」

ダメな部分も味わいとして晒していく。
58歳になった本木雅弘は、そんな自分を面白がって、平気に生きていく。

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