【ANOTHER SKY】芸人・横澤夏子さん(34歳) 新潟・糸魚川(2025年3月15日放送)

今田耕司「いまやもう3児のママ」

横澤夏子「5歳、3歳、1歳なんですけど。まだ言っても子育て始まって5年目なんで」

今田耕司「え、男の子?」

横澤夏子
「女・女・女です。全然言うこと聞かないっていう感じで。
コール&レスポンスでいつも公園行ってます。
(横澤)「言うことを?」 (子どもたち)「聞く!」
(横澤)「帰るって言ったら?」(子どもたち)「帰る!」
とか言って。
ずーっと前説ばっかりして(笑)」

今田耕司「確かにそれ盛り上がるわ」

 

新潟県糸魚川で育つ

横澤夏子
「ここ新潟県糸魚川という私の地元なんですが。
ほんと山もあって海もあって、自然豊かな。
ここで18年間育った町
東京に出たい!って思った。
沢山あるんですよ。そういうちょっと分岐点みたいな場所が。

(ここは)梶屋敷駅(えちごトキめき鉄道)っていって。無人駅で。
ここから、いつも遊びに行ってたっていう駅です。
1時間に1本なんですよ。
こっから糸魚川駅に行ったりとか。
あと、上越市の方にプリクラ撮りに行って。
2パターンぐらいお洋服持って。プリクラの為に着替えて(笑)
4000円ぐらい使って、もう何十枚も撮るみたいな。
あと富山の方にトータルテンボスさんの単独ライブとか観に行ったりとかして(笑)。
で、もっとオシャレな子は新潟市とか金沢とか行くんですけど。
私は上越と富山までっていうその(笑)」

 

忘れられないピアノ発表会のアナウンスの思い出

海辺の素朴な町で全ては始まった。
横澤の心根を知る恩師と久方ぶりの再会。
4歳から14年間通ったピアノ教室を訪れる。
ピアノ教室の先生だった上原さんと再会。
この頃の一番の思い出が、ピアノ発表会での忘れられない思い出。

横澤夏子
「(ピアノ発表会で)アナウンスやらせてもらったじゃないですか。
それがすっごい嬉しかったんです。
「1番 横澤夏子」っていうのを名前とあとブルクミュラー作曲とか言って、タイトルを言うっていう。
中学生ぐらいで任命してくれましたよね?
「携帯電話はお切りください」っていうのも私が言うんですよ。
「マナーモードにしてください」とかもね」

スタッフ「先生なんで夏子さんに?」

上原先生「いや、ちょうど年代的に順番でね、だいたいそう上からこう来てね」

横澤夏子「でも私の世代も何人かいたんですよ」

上原先生「あの「やだ」って」

横澤夏子「アハハハハ(笑)嘘でしょ!?え!?嘘!」

上原先生「そう頼んだの。えー恥ずかしいとかさ。やっぱり色々あったの」

横澤夏子「そうだったんですか!?なんか先見の明があってとかじゃなくて(笑)」

上原先生「でもなっちゃんは、あんまり言うと悪いけども、おしゃべりが好きだったし」

横澤夏子「アハハハハ(笑)!特別な人間なんだってすごい思ってたんですよ、あの時」

上原先生「うん。よかった よかった」

横澤夏子
「やっぱり目立ちたいていうのが。やっぱありましたね。
周りのその親御さんがうちの親を褒めてくれるんですよ。
その、「なっちゃんすごいアナウンスだったね。上手だね」っていうのをさらに、そうやってお母さん言ってたよっていうのをまた母親から褒められるっていう構図が。
「ああ、何か嬉しい!」って」

 

就きたかったのは、スポットライトを浴びる職業

いい子にしていた学生時代…スポットライトを浴びる学校の先生になると思っていた

両親は共に教育畑。
父は中学校の教諭。母はスクールカウンセラーという家庭。
お笑いとは無縁の環境で育った。

横澤夏子
「なんかもうすっごい厳しくて家でもめっちゃいい子にしてました

スカートを短くしたいなって思った時があって。
学校出てスカート折って短くして。家の前でスカート戻すっていうのをやってて。

だから、芸人になろうって思ったんですけど…本当に最後の最後の反抗期みたいな感じでしたね。

なんか元々本当学校の先生になると思ってたんで、自分も。
学校の先生って生徒からすると、ずっと芸能人だったんですよ。なんか裏が見えないというか。

スーパーとかで見る…あの、先生とかお見かけすると、「あ!」みたいな。
「ここのスーパー使ってんだ、この先生」とか。
そのスポットライト浴びてるのは先生って思ってたんで」

 

テレビを見て、学校の先生より目立てる芸人の道を志す

スポットライトを浴びる職業に就きたかった
そんな時だった。
人生がひっくり返るほどの衝撃を受けたのは。

 

横澤夏子
「「エンタの神様」のスペシャルバージョンで。
東京ビッグサイトでやってたお笑いネタのグランプリみたいな。
タカアンドトシさんのテレビ観たときに、1万人の前で漫才してる姿を観て。
学校の先生よりも目立てる職業あるんだ」ってそこで初めて知って。
だから、「1万人の人が横澤夏子って覚えることってできるんだ」って思って」

 

(スタジオで…)

横澤夏子
「「欧米か!」の漫才を観て。
「え~!楽しい職業!」って思って。
生放送の番組だったんですけど。それがもう魅力的すぎて

 

母校・糸魚川高校を訪問

進路、芸人になる方法を考えた通学路

横澤夏子
「(母校)糸魚川高校に続く道なんですけど。
自転車でいつもこの一本道をずっと走ってたって感じ。
だから、ここの道でいつも進路を考えたりとか。
芸人になる方法っていうのがなんかよく分からないっていう。
あと周りにもいないし。

成功した人しか見たことはないけど。成功しなかった人はどうなっていったんだろとか。
そういう不安ばっかりあって。

こちら。新潟県立糸魚川高校。この辺の学校でいうと進学校。
結構大学に進んだりとか、専門学校とか」

 

授業はモノマネのネタを探す時間…とにかく笑わせたい!

質問 教室での思い出は?

横澤夏子
面白い友達が多かったんですよ。
だから、その子達に負けないようにみたいな感じで。
授業を聞くっていうよりかは、もう先生の特徴を捉える時間みたいな感じで。
もう先生の1時間が見れるんだっていうので、すっごいワクワクしてました、授業

 

授業はモノマネのネタを探す1時間
先生のクセを探すのに一生懸命だった。
細かすぎるところまで。

 

横澤夏子
「で、お弁当の時にみんなに披露するみたいな。
でも、周りのお弁当メンバーもみんな面白い子ぞろいで。
どうしたら笑ってくれるんだろうとか。何がみんな面白いんだろうとか。
すごいなんか研究してた時期ですね」

 

彼女のお笑い魂に火を点けた、お弁当メンバーと再会…同級生の亜紀さん

横澤夏子
「わ~嬉しい!久しぶり。嬉しい!
お弁当メンバーね、7人ぐらいいたんだよね。8人ぐらいね」

笑わせたかった。何としても

横澤夏子
「ね。お弁当メンバーに認められたいからこそ、私は授業中ずっとノートの端っこに書いてたの。
先生の一言をね。フレーズを。
たまに、ネタがなくなるとそのノート開いてネタ探してんの。
アハハハハ(笑)!そっから拾えんの、でも」

 

(スタジオで…)

横澤夏子
「で、みんなもそのネタを持ちよるんで。そのお弁当の時に。
もうどうにかしてでも私が、その漏れてないその全てのワードを」

 

友達の「いいじゃん、いけるよ」が背中を押してくれた

横澤夏子「え、私亜紀にいつ言った?芸人になりたいって」

亜紀さん
「1回友達と一緒に夏子の実家に遊びに行ったときがあって。
夏子の部屋に吉本の願書?入学願書が貼ってあって、画鋲で。そう。
ガチだって思って」

横澤夏子
「私亜紀に言ったの家じゃなくて教室だった気がしてて。
そのときの反応が「いいじゃん!いけるよ!」って言ってくれたの、すっごい覚えてて。
(亜紀は)結構お弁当メンバーの中でスパルタ系だったんです。その厳しめ系だったんですよ。
その亜紀があ、認めてくれたんだと思って。

私カシューナッツ好きだったのすっごい覚えてる?
カシューナッツをもうとにかく持ってきてずっと食べてたんですよ。
で、私が吉本行くって言った時に。じゃあもう芸名決まりだね。
「カシュー夏子だね」って言ったの。それも亜紀。マジで」

 

高校卒業後、お笑いの世界へ

初めての壁…エピソードトークもなく、ネタも生み出せない

高校卒業後、東京へ憧れの吉本に飛び込んだ

横澤夏子
「私の大好きな場所。青春の場所ですね。
この吉本の∞(むげんだい)ホール(東京・渋谷 客席数218席)に立てるってことを目標にやっぱ頑張って来たんで。
すごいここで本当しのぎを削ったみたいな。

私が立ってた時は、芸歴10年目までがここで戦うみたいなシステムがあったんですよ。
(2025年)3月で∞ホールが閉館しちゃうんですけど。ちょっと寂しいなって気持ちもあって」

 

目標と定めた舞台。しかし、そこへ至る道のりは、なかなか険しかった。

横澤夏子
「NSCの在学中。だから、養成所にいながら、ここでライブができるっていう、在学生の。そのライブに出れなくて。
なんかずっとここの席(客席)で出演者のリハーサルをこう観るんですけど。
それがなんとも悔しくて。

ただ高卒で、そのクラスのお調子者みたいなのが。
「え!どうしよう」みたいな。
エピソードトークも何もなければ、その何のネタも生み出せない
え、どうしよう!みたいな。
そのほんとその…そこで初めて壁にぶつかるって感じです」

 

(スタジオで…)

今田耕司「覚えてるもんね、俺。(番組で)共演したの」

横澤夏子「そうですよね!」

今田耕司
「卒業の日にそのままスタジオに来て。
今年NSCで卒業したばっかりのメンバーっていうので。
なっちゃんはその時は選ばれなかったんだ」

横澤夏子
「選ばれなかったです。でも、オーディションはしてもらったんです。
同じスタートラインだったのに、みんなこっからもう人生どんどん変わってくんだっていうのが、もう悔しいな~って思ったのが」

今田耕司「焦るよね。まだ吉本の学校出たばっかりやのに」

横澤夏子
「そうですね。で、おかずクラブがそれこそ「やりすぎコージー」のあのスタジオで。
マイク付けてもらってたのを見て、すっごい悔しいって思ったの覚えてるんです。
「ピンマイク付けてもらってる~!」と思って」

 

洞察力が突破口に…人に出会うため習い事を始める

突破口をこじ開けたのは、幼い頃から培ってきた洞察力だった。

横澤夏子
「とにかく、人に出逢わないとネタが作れないんだって思って。
だったら、私は習い事しようと思って。
フラダンスとかフラメンコとか。

ABCクッキングの先生たちみんな明るいんですよ。なんかすっごい楽しいんですよ(笑)。
お尻で会話できる先生とか。お鍋の取っ手持ってるから。
「え~横澤さん上手!(お尻を横に振りながら)お店出せるよ♪」とか(笑)お尻で(笑)
お尻で突っ込んできたと思って。

やっぱ先生にも憧れがあったから、先生のネタとかもやり始めるんですよ。
父親が使ってない国語の教科書を東京に持ってってたんで。
それ使って、国語の先生のネタをやったのが一番最初のネタで(笑)。

その時に講師の先生が「あ、何か先生やってたの?」って言われて。
「え、やってないです。高卒です」って言ったんですけど。
それが、なんか自分にとってすごい自信につながって。
「え!先生やってたっていうように思ってくれたんだ」っていうのがすごい嬉しくて」

 

成人式の日…ついに目標のヨシモト∞ホールに立つ

自分だけの武器を手に入れ、ひたすら磨きをかけた
すると、忘れもしない成人式の日(NSC卒業から2年後)
ついに、視界が開けた。
ついに、ヨシモト∞ホールに立てる日が来た

横澤夏子
「こちらが(新潟)糸魚川市民会館なんですけど。
此処の市民会館で成人式があったんですよ。
成人式の日にちょうど(渋谷)ヨシモト∞ホールの初めての出番だったんですよ。
これは式典は出れるけど、飲み会は出れないっていうので。
式典だけ出て、めっちゃなんか忙しいフリしてすごい帰っていったのを覚えてます。
もう髪の毛も盛り盛りにしてもらって。そのまんま新幹線乗って。

たぶん、5分もないぐらいの出番なんですよ。
5分もないって分かってるけど。成人式の飲み会よりも絶対大事だって思って(笑)。

やっぱせり上がってるんで、初めてここ(舞台)に立ってお客さんを見たときの「こんないっぱい入ってくれるんだ」っていうなんか見下ろされてる感じというか、見てくれてるっていうのがすっごい嬉しくて。

で、「なんとかな女」っていうネタができてる時点で、結構私の人生が変わってきてて

 

芸人人生で1番嬉しかったこと…吉本のライブで20組中のトップに

「なんとかな女」でメディアの出演が激増

横澤夏子
「ピラミッドの下からちょこちょこちょこちょこ頑張って。
なんとか∞ホールに来れたんですよ。
この20組の中からトップを決めますみたいな。
一番その上澄みのライブに出れて」

それは追いついた同期と共に∞ホールで一番面白い芸人を決めるライブ

※2015年「彩~irodori~East Championship」ニューヨーク、コットン、鬼越トマホークなど20組が出場

横澤夏子
「そのライブをまあ私もネタをして点数パカッて開けたときに、1位だったんですよ、私。
で。トップだ!トップだ!ってなって。うれしい~!ってなって。
もう女子で、トップになれることあんの!?って思って」

 

(スタジオで…)

横澤夏子
芸人人生で一番嬉しかったことぐらい。
ヨシモトの劇場でトップに立てたっていうのが。
すごい自分の中で自信に繋がりましたね」

 

妊娠8か月でも番組に出たくてオーディションに

2017年に結婚。そして3児の母となり、生活もマインドも大きく変わった。

横澤夏子
「なんかね、「(ザ・)細かすぎて(伝わらないモノマネ)」とかで。
絶対無理なんですけど、妊娠8か月の時にオーディション行って
で、落とされない方法あるんじゃないかなと思って。
「1回ネタ見てもらっていいですか?」って行った時があったんですけど。
もうお腹の大きさ見て「いや、無理だよ」とかって言って(笑)

その時にやっぱり「あ、やっぱ子育てと仕事の両立やっぱ難しい」っていうのを知って。

劇場出番がないと、「あ、本当に私は何者なんだろう」みたいなところはすごいあります
だからやっぱり今でもルミネtheよしもとで出番もらってると、なんか結構そこでちょっとリセットできるというか」

 

「分かる分かる」が嬉しいし、救われる言葉

母になったことで、己の芸を見つめ直し、「自分の芸の本質」に気づいた。

横澤夏子
「子育てって、いっぱいネタが広がってて。
それをいかに覚えておくかが今もうすごい勝負になってて。
でも、喋れる場所があるっていう。この子育て番組とかで。

私はホント薬を飲ませるのがすごい嫌なんですよ。
いっつも団子にしたりとか、色々ゼリーと一緒にとか、色々やってたんですけど。
長女が「え、普通に飲める」って言うから粉のまま。
「え、飲めるの?」って言ってこうやってあげたときに、「やっぱりやだ」って言ってシャーってその(粉が流れた)。
薬ってこうやってウエットティッシュとかで拾ってもフローリングの溝に入ってったりとか。ベタベタになってて。
その時にすっごいもうめちゃくちゃ泣いたんですよ(笑)、私が。

で、そしたら「いや分かるよ」って言って。「薬全然飲まないよ」って言って。
そういうのを分かってもらえるっていうだけで、「えー!」みたいな。
もうあの時のこの悲しい気持ちとか困った気持ちが、分かってもらえるの?」っていうので。もう一気に逆になんか笑いに繋がるというか。

でもそうやって言われてみたら、お弁当メンバーの時も「あ、分かる分かる!」とか。
ネタの時とかも「あ、分かる 分かる!」で笑ってくれるのってすごい嬉しかったなって思って。
私は分かる分かるが嬉しいに繋がるし、すごくすくわれる言葉なんだなって思いますね」

 

細かすぎる所まで観察するのは、人が好きだから。
気付いたことを分かち合いたいから。
一本道はまだまだ続く。
母としても共感の輪を広げていく

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