薬害エイズ事件とは
当時の厚生省が認めた血液から作られた薬を投与し続けた患者1400人以上がエイズを発症する可能性があるHIVに感染。現在までに約700人が亡くなった。
実は、厚生省も製薬会社もHIVに感染する危険性があるという事を認識していた。
国と企業の信じられない隠蔽があった。
事件の概要
薬害エイズ事件とは、血友病患者に非加熱の血液製剤を投与したことで、多くの人がHIVに感染してしまった事件。
血友病とは、生まれつき血を固める因子が不足している為、出血しやすく、一度出血すると血が止まりにくい病気。
頭の中で出血すると命にかかわることもある。
血液製剤とは、人間の血液から作り出された薬であり、これを注射することで、止血ができる。
1979年に新しく加熱されていない血液製剤(非加熱製剤)が使用され、その血液製剤にHIV感染者の血液が混ざっていたことにより、それを使用していた多くの人がHIVに感染してしまった。
しかも、その危険性が1981年にアメリカで認識されつつあり、1983年には厚生省にエイズ研究班が発足され調査が始まり、1985年には新しい安全な加熱製剤が認可されたにもかかわらず、製薬会社ミドリ十字は非加熱製剤の販売を続け、厚生省も回収することはなく、被害が更に拡大する事となってしまった。
血友病患者川田龍平さん
薬害エイズ事件は国や製薬会社のせいで、血液製剤を注射したことによって、HIVに感染し、エイズになってしまった人たちという何となくのイメージはあったのですが、まだ若い頃だったので、細かい知識はありませんでした。
ただ、川田龍平さんの印象はとても強いです。
テレビに映る川田龍平さんの映像を見て、当時のことが思い出されました。
HIVに感染してしまった川田龍平さんが、懸命に訴えてる姿。
若いのに、しっかりと思いを訴えている姿が印象に残っています。
今回の番組では、この川田龍平さんを通して薬害エイズ事件を振り返っていました。
顔と名前を公表しメディアに出た川田龍平さんのHIV感染発覚まで
川田龍平さんが抱えていた病は「血友病」。
血友病とは、生まれつき血を固める因子が不足している為、出血しやすく、一度出血すると血が止まりにくい病気。頭の中で出血すると命にかかわることもある。
龍平さんは出血を防ぐため、激しい運動は控えていました。
1976年(生後6か月) 「血友病が判明」
血友病が判明し、何度も内出血が起きた。
すると、血の塊が神経・血管を圧迫するため、痛みが出る。
夜中でも止血のため、病院に行かなくてはいけなかった。
そこで使われる薬品が、血液製剤と呼ばれる人間の血液から作り出された薬。
この血液製剤には、血を固める凝固因子が含まれていた。
これを打つと止血できる。
1979年(3歳7か月) 「新しい薬「濃縮凝固因子製剤」の使用を開始」
運命を変える出来事があった。
医師から治療に新しい薬を使わないかと提案があった。
その薬は「濃縮凝固因子製剤」と呼ばれる加熱処理されていない薬、いわゆる非加熱製剤。
従来の薬より凝固因子が多く含まれ、止血効果が高かった
医師からは、
- 今までのモノより止血効果が高い
- 定期的に使うと出血を予防する効果がある
と勧められた。
それは血友病患者にとって夢の薬だった。
しかし、この薬が後に多くの人の命を奪う。
1982年(6歳)「新聞で血友病患者にAIDS感染が増えていると掲載され、医師に使用しても大丈夫か確認」
母親は同性愛者と血友病患者に広がるある奇病についての新聞記事を見ていた。
この奇病とはエイズのことだった。
後天性免疫不全症候群(acquired immunodeficency syndrome) 頭文字とって略してAIDS。
そして、すぐに医師に確認した。
「血友病患者にAIDS感染が増えているのは本当か?血液製剤が問題なのか?」
医師は「今の所、病院では大きな問題にはなっていません。大丈夫です」と答えた。
このころAIDSについて病院側も正しい情報を持っていなかった。
そのため、龍平さんにはHIV感染の危険があった血液製剤が使われ続けた。
また、やがて、この血液製剤は自己注射が保険適用となり、わざわざ病院に通わなくても自宅で予防治療が出来るようになっていた。血友病治療としてはまさに夢の薬だった。
1985年(9歳)「日本人のエイズ患者が現われ始める」
3月 厚生省が海外在住の日本人をはじめてエイズの患者と認定(第1号)
5月31日 ついに国内で初めてエイズ患者が出た。エイズと認定された5人のうち、3人が血友病患者だった。
1986年(10歳)「HIV陽性。エイズウィルスに感染したことが判明」
新しい血液製剤を使い始めて7年がたったころ
1986年1月 衝撃の言葉が医師から告げられる
「龍平君の検査結果が出ました。
HIV陽性です。エイズウィルスに感染しています。」
HIV(ヒト免疫不全ウイルス)
エイズを発症すると、褐色の発疹が体に出来たり、口の中がカンジダという菌により舌が白く覆われたりして、感染症や悪性腫瘍を引き起こす命を落とす病。
HIV感染を龍平さんに伝えるのに母親は1年かかった。
1987年(中学校入学) 「体調が悪化。インターフェロン治療を行う」
龍平さんのHIV感染判明から1年半
エイズの症状がいつ出てもおかしくない状態だった。
体調が明らかに悪化していた。
「検査の結果、免疫がかなり落ちてきています」と医師に言われ、インターフェロンという治療方法を医師に勧められた。
インターフェロン治療とは、ウイルスの増殖を抑える働きのあるたんぱく質を注射によって補充する治療法。
当時、エイズの発症を遅らせる効果があると期待されていた。
治療を続けながら龍平さんは中学校に入学。
新しい薬の原料はアメリカから輸入
この濃縮血液製剤の原料はアメリカから輸入されていた。
使用される血液は主に血液を売る人から集めていた。
そして、数千人から数万人の血液をまとめて血液製剤を作っていた。
つまり、万が一その中にHIV感染者がいれば、そこで作られたすべての血液製剤がHIV感染の危険性があった。
HIVの感染経路は主に3つ
- 性行為
- 血液感染
- 母子感染
空気感染や接触感染はしない
しかし、人々はパニックになって、エイズに感染した人が出ると、近づかないとかお店に行かないといった行動をとった。
さらに、血液製剤を使用しているというだけで、血友病患者=エイズという間違った認識も広まっていた。
龍平さんも学校で友達に「僕の机を触るな」「エイズがうつるから近づくな」と言われるなど偏見があり、龍平さんの居場所を奪っていった。
本来HIVに感染しても、すぐにエイズを発症するわけではない。
さらに、現在では治療法の発展により、HIVに感染しても、適切な治療をうければ、エイズを発症することはない。日常の生活を送ることが可能である。
しかし、当時は有効な治療法がなく、死に至る病と考えられていた。
製薬会社ミドリ十字と厚生省の対応
製薬会社ミドリ十字「製剤が国内産であると嘘のアピール」
1985年 龍平さんのHIV感染が分かる1年前。
製薬会社ミドリ十字の血液製剤に関して、他社の営業マンが、病院の医師に
「ミドリ十字のものは輸入の原料を使っているので、エイズの危険性が高いって知ってました?」と言って営業していた。
他社がそのように営業していると知ったミドリ十字社は、社内に次のような通達を出して、製剤が国内産であると嘘のアピールをして営業をしていた。
社内文書内容
『営業企画部からのご案内です。さてこの度、わが社の方針を再認識し、他社の誹謗に対応するために、得意先には、製剤が国内原料で作られている事実を積極的に知らせてください』
→その営業方針に対して社長も、「すでにそういうやり方で販売してるなら、そのまま行くしかない。虚偽の宣伝を一度やって、これをまた撤回するというのは会社全体の信用を傷つけかねない」とそれを容認した。
そして、社長命令として虚偽の宣伝を続けることに。
『わが社は、血液濃縮製剤の原料血漿を“日本人のもののみ”使用していることを宣伝する』と社長命令を出した。
殆どの営業部員は、これが事実だと信じて販売を続けた。
厚生省「エイズ研究班」を発足
1983年
厚生省ではアメリカでエイズ患者の血友病患者が増えているとの情報を得て、エイズ研究班を発足していた。
※1981年ころから米国でエイズの症例が報告されるようになり、エイズ患者の中に血友病患者が高い比率で見られるようになったことから、米国内では非加熱製剤の安全性が疑問視されるようになった…Wikipediaより)
その1つの会議(第1回血液製剤小委員会)で、エイズ研究班は「現在の非加熱濃縮製剤の9割がアメリカ由来なので、リスクを考えると以前の国内で作られた血液製剤に一時的に戻すべきかと思っています」と提案した。
しかし、会議に参加した医師から「しかし今の血液製剤は前のものと比べるとはるかに優れている。濃縮製剤を自己注射するようになったのは、血友病治療の大きな進歩。前の薬に戻すのは患者にとっても負担になってしまう」という医師たちからの意見を受けて、リスクの低い前の薬に戻す判断はなくなり、HIV感染の可能性が高い非加熱濃縮製剤を承認し続けていた。
加熱濃縮製剤(新薬)が出現するが、ミドリ十字は非加熱製剤を売り続けた
その2年後、1985年、ようやくHIV感染対策の血液製剤が出る。
それが、「加熱濃縮製剤」。
加熱処理することで、この薬品からエイズウィルスに感染することを防ぐ。
既にアメリカでは承認・販売されていた。
1985年7月(龍平さんHIV感染判明の半年前)には、製薬会社5社の加熱濃縮製剤が製造、販売の認可を得た。
しかし、製薬会社のミドリ十字では、
営業責任者「加熱製剤の承認はおりたけど、製造が需要に追いつくかは正直分からない。融通のきく取引先には、まだ非加熱製剤の方を売っていけ」と会社の利益を守るために、HIV感染リスクのある非加熱製剤を売り続けた。
つまり、加熱製剤が主流となれば、売れ残ってしまう非加熱製剤の在庫処理を優先した。
血友病患者の回収のお願いを断った厚生省
一方血友病患者は厚生省に申し出を行った。
「非加熱の血液製剤をすぐ回収するように、製薬会社を指導してほしい」と陳述書を厚生省に持って行った。
しかし、厚生省生物製剤課長は
「それはできません。非加熱製剤が全部HIVに汚染されているとは限らないでしょう。そんな指導をしたら企業に損害を与えてしまいますから」と厚生省も患者目線で考えてくれなかった。
厚生省、製薬会社それぞれの不適切な判断により、危険な非加熱製剤は回収も破棄もされなかった。
それにより、当時の血友病患者1400人以上がHIVに感染した。
声を上げ始めた被害者たち
1987年頃(川田さん中学生)
このころ、非加熱製剤によるHIV感染がニュースで大々的に報じられた。
社会で大きな問題になりつつあった。
国や製薬会社が早い段階で血液製剤の危険性を認知していたが、回収していなかったことが分かってきた。
罪もない血友病患者たちがエイズを発症し、次々に亡くなっていった。
実際にエイズを発症した石川県に住んでいた岩崎孝祥(たかよし)さん。
非加熱製剤の使用によって12歳でHIVに感染し、高校生でエイズを発症。免疫が低いため様々な病原体で感染症を引き起こす。
高熱や頭痛、皮膚炎に加え、ニューモシスチス肺炎に襲われた。
さらには、両腕・両脚の内出血ができ、激しい痛みを抑えるためにモルヒネが打たれた。
病床から孝祥さんは母に「おれ、エイズなんか?」と尋ねた。
胸を締め付けられる思いで母はすべてを話した。
孝祥さんには画家になる夢があった。生きている証として絵を描き続けたが、ペンを書く力も失われて行き、桜をかいた(桜に見えない線と点の絵)絵を最後に、その4日後19歳で亡くなりました。
製薬会社と厚生省に対し、損害賠償訴訟を提訴
1989年(龍平さん中学2年生)
大阪・東京で血友病患者のHIV感染被害の救済を求める損害賠償訴訟が東京地裁に提訴された。
1989年5月第1次提訴
非加熱製剤の危険性を認識しながら、回収措置を取らなかった厚生省とミドリ十字、製薬会社5社を被告として損害賠償請求の裁判が始まった。
その裁判で、厚生省で発足したエイズ研究班の会議資料を求めたが、「エイズ研究班の討議内容と資料は確認できない」とそんな資料はないというような答えが返ってきた。
厚生省や製薬会社は責任を認めず、裁判は難航。
川田龍平さんが実名と顔出しをしてメディアに
龍平さんはこのころ、ある決意を固めた。
このころは原告団で名前、顔を出す人が少なかった。エイズの差別や偏見を恐れていたから。
そんななか、龍平さんは実名公表、顔出しを決意した。
記者会見で…
「僕がなぜ出てきたのかっていうのは薬害の被害者だからで、薬害だってことを分かってもらいたいから出てきました。それにかかわった人たちを殺したいと思ったこともありました。だけど、何になるわけでもないし、しっかりと間違いを認めさせて、今この場で戦おうと思ってやっています。」
と述べました。
未成年の感染者では初の実名公表。
翌日公表までの半年間に密着した写真集「龍平の未来 エイズと戦う19歳」を発売。
そこに写っていたのは普通の19歳の姿。
また、エイズ患者である龍平さんと友人が普通に一緒に温泉に入っている写真はまだ偏見があった人々に衝撃を与えた。
そして、世間の空気が一気に変わっていく
厚労省の建物前で思いを訴える
川田龍平さんは、厚生省の建物の前でマイクを持って
「厚生省は未だ責任をみとめず謝罪もしていません。国の責任を明確にしてください」
と訴えました。
また、記者会見では、
「僕はまだ未発症者で、まだこうして活動できます。だけど、いまだかつどうできない原告がたくさんいます。どんどん殺されて行ってます。死んでいるのではありません。殺されていってるのです」
と述べました。
3500人の賛同者が厚労省を取り囲み訴える
そして、事態は変わります。
被害者に若い世代が多くいたことを世間は知っていく。
1995年7月24日
多くの大学生などが賛同し、多くの若者が厚生省を取り囲んだ。その数約3500人。
龍平さん
「被害者に謝罪せよ!僕より小さい子がどんどんなくなっているのです。僕ももうそんなに長くないと思っています。
なんとしても生きているうちに謝罪させて、この問題を解決させたいと思っています」
そこに亡くなった岩崎孝祥さんの母親もいました
「うちの息子は19歳でなぜ死んでいかなければならないんですか!」
群衆
「厚生省は謝れ!」
人々は互いに隣の人と手を取り合ってつなぎ、それは「人間の鎖」と呼ばれました。
龍平さん
「たくさんの人が死んでいってるんだぞ!国民の声を聞け!」
国会で始まる追求
責任を認めないエイズ研究班
世論に後押しされ、国会でも追及が始まった。
1983年厚生省で発足していたエイズ研究班は、
「HIV感染の危険性が分かっていたのに手を打たなかったのでは?」と追及を受けると、
厚生省薬務局長「10年以上前の資料でございますので、保存はされておりません」
資料を誰が捨てたのか?と聞かれると
「残念ながら資料が保存されていないという状況でございます」と答えるばかり。
当時の厚生省エイズ研究班班長は責任について問われると
「医師としては私の良心に恥じる所はございません。お辞儀をして謝るということは、それはちょっと私としては出来かねますね」と責任を認めなかった。
第1次橋本内閣発足 菅直人氏が厚生大臣に就任 内部調査本格化
「人間の鎖」から半年。
1996年 第1次橋本内閣が発足し、菅直人氏が厚生大臣に就任し、薬害エイズに関する内部調査が本格的に始まった。
そして、事態は大きく変わる。
エイズ研究班の資料が見つかった。
ないと言い張っていた厚生省薬務局長は
記者「要するに裁判で今までないと言ってたものが裁判の資料と一緒に入ってたという事ですか?」
局長「裁判でどんなことを主張してるかというですね」
記者「時期的に言うと裁判が始まって以降のものですね。その中に今までないと言っていたものが入っていた?」
局長(横を向いて)「…(無言)」
そして、その資料により研究班が当時から非加熱製剤の危険性を分かっていたことが判明。
原告団座り込みと厚生大臣菅直人氏による謝罪
龍平さん「明日からの座り込みによって全面解決を勝ち取りたいと思います」
龍平たち原告団は国の対応に怒りを示し、座り込みを決意。
HIVに感染し免疫が落ちている彼らにとっては寒空での座り込みはまさに命がけだった。
すると、そのさなかに菅直人が「厚生省の責任 政府の責任 国の責任 そのすべてについて本当に申し訳ありませんでした」と原告団に対して全面的に謝罪した。
川田さん母「原告団を代表して厚く御礼申し上げます。ありがとうございました」
ミドリ十字による土下座
さらに、これまで責任を認めてこなかったミドリ十字の記者会見で・・
被害男性「我々どんな思いで製材注射してたかわかってんのか!」
岩崎孝祥さん母「人殺しですあなたたちは!人殺しです!うちの息子と同じような苦しみをあなたたちは味わうべきです!」
川田さん母
「あなたたちは一度も責任を認めて本当に心から謝罪するというそういう言葉は聞けません!こうしている間に被害者死んでってるんですよ!あなたたちが殺していってるんです!」
そして、最後に幹部たちは土下座した。
裁判の結果
1996年3月29日薬害エイズ裁判で実質原告勝訴の和解が成立した。
その後、1985年から1986年にかけてHIV汚染の非加熱製剤うって患者2人を死亡させたとして、ミドリ十字歴代3人の社長、当時の厚生省元生物製剤課長、医師でもあったエイズ研究班元班長が業務上過失致死の疑いで逮捕された。
しかもミドリ十字社は1985年に製造された非加熱製剤を国内の血漿だけで作られたってつじつまが合うように記録を作り変えてほしいとミドリ十字の製造責任者が指示して隠ぺい工作が行われていたことが裁判で発覚した。
悪質な犯罪行為をした製薬会社ミドリ十字社長らは禁固1年2か月から1年6か月の実刑判決を受けた。
一方厚生省元生物製剤課長は「薬害の危険を未然に防止する立場にありながら、販売中止や回収を命じることもなく、やるべきことを怠っていた」として業務上過失致死の罪で禁固1年執行猶予2年が確定。
エイズ研究班班長は「エイズによる患者の死亡という結果の予見可能性はあったが、その程度は低く過失があったとは言えない」として一審では無罪判決。
その後控訴するも心神喪失(認知症)を理由に公判は停止。無罪判決のまま死亡した。
*参考(民事裁判の結果)*
1989年5月大阪、10月東京で製薬会社と厚生省に対して損害賠償を求める民事訴訟が提訴される。
→その後原告団は早期解決を求め、和解勧告の上申書を地方裁判所に提出。
1995年10月 東京地方裁判所・大阪地方裁判所は原告1人あたり4500万円の一時金支給を柱とする第一次和解案を提示したが、厚生省は救済責任は認める一方、加害責任は否定。
1996年厚生大臣菅直人が謝罪。東京・大阪地裁は発症者に月15万円を支給する第二次和解案を提示し、製薬会社、日本政府、原告側も受け入れ、両地裁で和解が成立
被害者のその後
岩崎孝祥さんの死から31年がたちました。
岩崎さん母
「エイズウイルスが非加熱製剤に混在しているとわかった時、驚きと悔しさと。
私が息子の手に注射を週3回売っていた。息子の体の中にウイルスを注射していた。
自分を責めるんですね。ひたすら自分が息子のために何ができるかっていうのを考えて生活していた毎日だった。」
川田龍平さん
当時を振り返って…
「入院していた病院からいろんなところに活動に行っていた。悔いを残さない。やることはやるんだという思いでやっていた。いつ死んでもおかしくないという中で、必死でやっていたんだなと思います。」
スタッフ「今体調の方は?」
川田さん「元気でやっています。血友病は週1回位注射をするくらいで、HIVの薬も1日1回で良くなりました」
川田さんは2008年に結婚されました。
「特に結婚してから免疫が良くなったんですけど、免疫の状態を保つことが、大事なことかなと思います。」
と語っていました。
まとめ
【薬害エイズ年表】
1979年
・新しく加熱されてない血液製剤(非加熱製剤)が使用開始→これにHIV感染者の血液が混ざっていた
1981年
非加熱製剤の危険性がアメリカで認識されつつあった
1982年
新聞で血友病患者にAIDS感染が増えていると掲載される
1983年
・厚生省に「エイズ研究班」が発足されて調査開始
→この時点でアメリカでエイズ患者の血友病患者が増えているとの情報を得ていた
1985年
・日本人のエイズ患者が現われ始める→3月に海外在住日本人第1号エイズ患者認定
・新しい安全な加熱製剤がでて、製薬会社5社の加熱濃縮製剤が製造・販売の認可を得た
→この後も製薬会社ミドリ十字は非加熱製剤の販売を続け、厚生省も非加熱製剤を回収しなかった
1987年
- 非加熱製剤によるHIV感染がニュースで大々的に報じられた。
- 国や製薬会社が危険性を認知していたのに回収してなかったことが判明してきた
- 血友病患者たちがエイズを発症し、次々亡くなった。
1989年
HIV感染被害の救済を求める損害賠償訴訟が大阪・東京で提訴される。
川田龍平さんが顔と名前を公表し、メディアに登場→世間の空気が一気に変わっていく
1995年 多くの大学生など約3500人が厚生省を取り囲む
1996年
第1次橋本内閣発足 菅直人が厚生労働大臣に就任→本格的に調査開始
民事訴訟で和解成立 発症者に月15万円支給
刑事事件で関係者が逮捕・起訴
(以上Wikipediaより)