【おしゃれクリップ】俳優・志尊淳さん(30)「人生の転機と母の思いに溢れる涙」(2025年5月25日放送)

井桁弘恵「あ、結構親交あるんですか?」

山崎育三郎「あの大河…大河ドラマ(「青天を衝け」)でちょっと一緒で」

志尊淳「で、プライベートでも、城田優の…」

山崎育三郎
「が、共通の友達で。淳ちゃんといえば、もう好青年。
もうプライベートでも変わらないし」

志尊淳
「いや~でも、優の前だとちょっと大人ぶってるだけで。普段はクソガキだと思います」(笑)

山崎育三郎「そういう部分を一回も見たことない」

志尊淳
「カメラの前とかだと特に。
あ、ちゃんとしなきゃって意識が働いちゃうんで。
スイッチ入れてます」(笑)

 

何でも話せる母

2日に1回電話

今年3月に30歳を迎えた俳優・志尊淳さん。
4年前には心臓の大病を患い手術。人生観が大きく変わった。
そんな志尊さんを見守り続けるのが、幼少期両親が離婚して以来、女で1つで3きょうだいを育ててくれた母。

山崎育三郎「お母さんに2日に1回は電話する?」

志尊淳
「(母が)1人暮らしなんで。もう常に心配になっちゃうんですよ。
じゃあ何話してるんだって言われたら、ホント友達みたいに「今日現場でさ、こういうスタッフさんがいるんだけど、こういう話してさ」とか、そういうことまで話す。
ほんと長い時1時間とか話すし。5分ぐらいで終わる時もあるし
もう何でも話せるんですよ、悩みとか

山崎育三郎「でもさっき恋バナ以外は(何でも話すって言ってたけど)、やっぱりそこは?」

志尊淳
「なんかウチの母親が、初恋がウチの父親で。それで結婚してるんで。
全然分かんないんですよ、恋の相談しても」

山崎育三郎「あ、したことはあるんだ?」

志尊淳「あります あります」

山崎育三郎「それお母さんはどういう反応なの?」

志尊淳
「「私は分かんない」「良いんじゃない?愛があれば」とか(笑)。
隠してることがないですね。貯金も知ってるし」

井桁弘恵「えー育さまはお母様に…?」

山崎育三郎
「俺もね、2日に1回(連絡する)。そう。
それパートナーがいても連絡したりするの?」

志尊淳「あ、関係ないっすね」

井桁弘恵「むしろ一緒に巻き込んでくれる?」

志尊淳「紹介するし」

山崎育三郎
「だからよく聞くのが、やっぱりそのお母さんを大事にする男性は、パートナーとか女性に絶対優しい、うん。(淳ちゃんは)絶対優しいし、(俺も)優しい」(笑)

 

人生の転機

お母様全面協力のもと、幼い頃から今に至るまでを取材。

◎志尊淳「人生の転機」

  • 両親の離婚
  • 15歳で芸能界入り
  • 17歳 約1年の家出
  • 26歳 心臓の大病

 

転機①ヤンチャな少年時代(小・中学校)

手に負えず、母親が相談所に相談に行く

山崎育三郎「まずはこの少年時代。子どもの頃って淳ちゃんどんな子だったんですか?」

志尊淳
「なんか、母親が相談所とか行くくらい本当に手に負えなかったらしくて。
もう小学校の時、何回母親呼び出されて、菓子折り持って謝りに行ったり
まあ中学でもそうでしたね。

たぶん今だから感じるのって、家族に認めてほしかったみたいな部分が強くて。

しかもそれが歪(ゆが)んでて、なんかそういうやり方でしか、なんか自分を表現できなかったのかな。今思うと、はい」

 

母「すぐスネる子」 姉「仲が悪くケンカばかりだった」

ヤンチャだったという幼少期。お母様はどう思っていたのか?

志尊母
「なんかすぐへそ曲がっちゃって。もうすぐスネたりするみたいになって
どうせママは僕の事なんて全然分かってない!みたいにこうなっちゃって。
すごく子育てに対してこう私もうどうしてったらいいんだろうって悩んだんですよね。

淳の良いところを伸ばしたいって、すごくやっぱ思ってたから。
なんとかその淳の良いところをみんなに分かってもらえるにはどうしたらいいんだろう…みたいに思っていたので」

志尊姉
「あのー子供の頃めっちゃ仲悪くて。あっはははは(笑)
喧嘩ばっかしてたんですけど。

いやなんかもうママを独り占めしたいみたいな感じのママっ子だったかな~。
ヤンチャ?ヤンチャで。で、甘えん坊みたいな。

で、なんか結構勝負とかそういうのも勝ちたいみたいな(笑)。
そんな感じですかね~」

 

山崎育三郎「え、ママはもう僕の事全然分かってない!って覚えてます?言ったの」

志尊淳
「覚えてますよ、なんか。「何にも分かってないし、見てないし」みたいな。
でも母親もずーっと朝から晩まで働いて。帰ってきたら子どもの世話して、寝かしつけてって。
そりゃ、時間もないじゃないですか。
でもそんなこと知らなくて、子どもの時は。
「なんでさ、ママはさ」みたいな感じだったんだと思います、全体的に」

井桁弘恵「兄姉喧嘩とかも結構ありました?」

志尊淳
「お姉ちゃんとの喧嘩なんてヤバいですよ。
お母さんが言っても…全然覚えてないんですけど。
普通にもうこうやってプロレスみたいにガッってつかみ合って、ア~ウッ!みたいな。
で、もう殴られて血出て泣くみたいな、僕が」

山崎育三郎「それお母さんいない時?」

志尊淳
「いや、お母さんいても、お母さん笑いながら見てるんですよ。(笑)
もうやれるだけやれって。
もう2人ともエネルギー有り余ってるんだったら、もう好きなだけやりなさいみたいな。

で、なんか僕的には、「いやもう絶対お姉ちゃんが悪いよね、今の」みたいな。
(母は)「いや、あんたたち2人とも悪いよ」みたいな。
(僕は怒って)プンッ!みたいな(笑)」

山崎育三郎「じゃあ、お姉ちゃんとはずっと喧嘩して?」

志尊淳
「本当に仲悪かったです、ついこの間まで。
仲良くなったのなんて、23,24(歳)ぐらいじゃないですか」

井桁弘恵「そのお姉さまがね、電話で取材を受けてくださったっていう」

志尊淳「確かに。初めてですよ、たぶんテレビ。出たがらないんで」

山崎育三郎「ああ、嫌がるの?ほんとは」

志尊淳「はい。だから、何で出てくれたんだろうと思う。たぶん、最近仲良いからだと思います(笑)」

 

転機②両親の離婚(小5)

小5の時、母の告白と大泣きして食べたハンバーグ

井桁弘恵
「先ほどVTRにもありましたが、小学生のときにご両親の離婚が、志尊さん自身の転機になったそうなんですが…」

志尊淳
「いや~もう今でも忘れられない。メチャクチャ悲しくて
(母と子供の)4人でご飯行こうってハンバーグ屋さんに行ったんですけど。

そこで、その料理を待ってる間に、「実は離婚してて…」って話を母親が泣きながら言って。
もうきょうだい3人も泣きながら…もう大泣きしながらそのハンバーグを食べた思い出がすごいあって」

山崎育三郎「その時、淳ちゃん何年生?」

志尊淳
小学5年生とかだったかな。
「でも、せめて淳が中学入るまでは絶対に隠し通すつもりだった」って言ってたんですけど」

井桁弘恵「お母様にもこの当時の心境をお聞きしました」

 

離婚を告白した時の母の思い

質問 離婚を伝えた時の心境は?

志尊母
子供たちに離婚をするっていう事を伝えずに、墓場まで持って行こうと思ったんですよ。
なんかある日…私の携帯をたぶん淳がチラッと見て。
「ママ本当のことを言ってくれ」「もう正直に話してくれ」っていう真剣な子どもたちのあの顔を見たら、私涙が止まんなくなっちゃって

この子達から父親を奪ってしまったみたいなそういう思いが私すごく強くて。
とにかく必死でしたよね。もう必死で。日々日々必死で。
この子たちをなんとかして社会に出さないとっていう気持ちでしたね」

 

朝から晩まで働いていた母親

山崎育三郎「どうですか?お母さんのその当時の思いっていうのを聞いて」

志尊淳
「当時は「あ、お母さん離婚してうれしいんだろうな」みたいな感覚もあったんですよ、ちょっと。
けどそれよりも、子どもたちのためにっていう思いがすごい強い母親なんで。
「あ、まあなんかそんな風だったんだ」みたいなのはやっぱ感じますよね。

離婚して、あのー経済的にも結構やばくなったから。
いろんな事情が重なって、夜逃げみたいな…。

あの家を出てくことになるんですよ、地元から。
出なきゃいけなくて。出て。
で、やっぱ母親が子ども3人育てなきゃいけないんで。
もう本当に朝から晩まで働いてましたね」

山崎育三郎「それ(離婚の話)を聞いてから、何か変わったことってありますした?淳ちゃんの中で」

志尊淳
「なんかやっぱ当時少しは「やっぱり家族一致団結していかないとな」みたいな気持ちは芽生えたと思います。
だから一瞬兄姉とも助け合おうっていうフェーズになったのかなっていう」

山崎育三郎「ちょっと喧嘩も抑えてこうみたいな?」

志尊淳「ま、そんなの1か月もってなかったですけどね」(笑)

山崎育三郎「しょうがないよね」

 

転機③スカウトされるように(中3)

20~30社から名刺をもらう…母に褒められたのが嬉しくて

志尊淳
中3ぐらいから、なんか街歩いてたらスカウトされるようになって
で、ホント2~30社とか名刺をもらうようになったんですよ。
原宿・渋谷行くたんびに、いただいて

で、母親が「すごい!」みたいな。「淳すごいじゃん!」みたいな
初めて褒めてもらえたというか(笑)なんかそれが嬉しくて」

山崎育三郎「そんなスカウトが来るくらい美少年だったら、モテるでしょう?中学校とか」

志尊淳「あ、でも男子校だったんで、全然」

井桁弘恵「え~共学にいたらどうなってたんだろう」

志尊淳
「あ、でも隣に女子校があって。そこの女子校の人から、チョコとかすごい貰いました(笑)」

山崎育三郎「ほらぁ~。ね?そうでしょ?絶対」

井桁弘恵「いや、絶対そうです」

 

転機④芸能界へ(15歳)

初めて載った「週刊少年ジャンプ」をまとめ買い

15歳で芸能界へ。その時お母様の心境は?

志尊母
オーディション受かったのかな?
そうだそうだ。それで受かって。
そしたら淳は「やりたい!」と。「借金してでもやりたい!って言うから。
「じゃあ、頑張ってママが働いて、お金出してあげるから行きなさい」みたいな感じで。

(デビューは)覚えてます!
なんかメンバー発表で、週刊少年ジャンプかな?
なんか白黒で本当に小さかったんですけど。「出るよー!」って言って。
で、販売する日になんかいっぱい買い溜めした覚えがありますね」

 

お姉さまにも聞いてみると…

志尊姉
「なんか本当に1ページだけで。しかも白黒みたいなページだったんですよ。
でも、母がなんか10冊とかいっぱい買ってきて。はい。
それ見てなんか私は「へぇ」みたいな。
「白黒じゃん。10冊もいらなくない?」みたいな。あっはははは(笑)」

 

山崎育三郎「覚えてます?お母さんがたくさん買ってきて」

志尊淳
「覚えてます 覚えてます。お母さんとおばあちゃんでなんか「少年ジャンプってどこに売ってるの?」ってところから始まって。
なんかコンビニに売ってるつって、コンビニ行ったり。はい。覚えてます」

井桁弘恵「え、お姉さんとお兄さんは、反応どうだったんですか?」

志尊淳「お姉ちゃんとお兄ちゃんは、僕の作品たぶん観たことないです。(育三郎・井桁「え⁉」)
今も、1個も。
だって、お姉ちゃんとか普通に街歩いてて、僕の腕をずっと組みながら歩いてくるんですよ。
「撮られたりするかもしれないからやめて」みたいな。
「やめて」とか言うと「は?誰がお前に興味あんだよ?」とか言って」(笑)

山崎育三郎「ほんとに分かってないの?お姉ちゃん」

志尊淳
「全然分かってないです。
この間あのーなんか、なんかのひょんな話から、「岡田将生が~」みたいな話したら、「え?ますだおかだ?」って言われました」(笑)

 

転機⑤1年の家出(17歳)

家族と喧嘩…誰にも何も言わず連絡せず

順調な船出に思えたが、家族との関係に悩み、17歳の時家出

山崎育三郎「これ(家出は)今の舞台(=初舞台)の後の話ですか?」

志尊淳
「えー最中かなー?ちょっと詳しくは覚えてないんですけど。
まあ、家族と喧嘩をして。ホント些細な事からスタートして。
お姉ちゃんとかあんな感じなんで。
「あんた舞台でラケット落として恥ずかしい」とか」(笑)

山崎育三郎「ちょっと言いそうなお姉ちゃん」

志尊淳
「うん。雑誌見て「白黒1ページかよ!」みたいな(笑)
「なに?メイクさんもついてないし、これ私服じゃん。ダサっ!」みたいな。(笑)
なんかそういうのに17歳ながら、「は?」みたいな。
兄もいるんですけど、兄もなんか「あ、お前のとか興味ないから」みたいな。
見てくれないし。

あ、なんだ。誰も応援してくれてないじゃん」みたいな。
僕はもう1人で家を出る!」っていう気持ちになって。

母親とか家族には誰にも言わずに、あの引っ越し先を自分で探して、家出しました。連絡しないで

 

母の心境…毎日憂鬱で何とも言えない日々

淳さんが家出をしていた時の母の心境は?

志尊母「いやーもう本当に毎日憂鬱で。何とも言えない日々でしたよね。

(涙ぐんでくる志尊淳さん)

連絡しても返信ないしみたいな。

あーだから、やっぱり淳は覚悟を決めてるんだなってすっごい複雑な想いで毎日毎日過ごしてましたよね。ため息ばかりで、ほんとに…。
淳の名前を言うだけで、涙出てきちゃいますよね、その当時は。どうしたらいいんだろう…」

 

連絡来て家族に会い…大泣きの母と祖母&激しく怒る兄

山崎育三郎「でも連絡くるでしょ?お母さんから「どこいるの?」みたいな」

志尊淳
連絡来て。1回家族で会ったんですよ。
そしたら、まあ母親もおばあちゃんも大泣きで
でも兄貴がもうとんでもないくらい怒ってて。もう本当にぶん殴られて、グーで
「お前母親泣かせるってどういうことか分かってんのか」みたいな。
で、「お前二度と帰って来んじゃねぇ」みたいな。
「勘当でいいから」みたいな。
「二度と帰ってくんなよ」みたいな」

山崎育三郎「でも17歳でその覚悟持てるっていうのが、それが淳ちゃんのこの活躍につながってたとも思う」

志尊淳
「うん。やり方は絶対正しくないやりかたでしたけど。
あの時期は、まあ今思うとですけど、あって良かったし、家族も突き放してくれて良かったなって思いました」

 

転機⑥心臓の大病(26歳)

急性心膜炎…死んでもおかしくなかった

NHK朝ドラ、大河ドラマ出演と活躍を重ね、人気俳優としての地位を築いたが、26歳で心臓の大病
急性心筋炎を患い手術。ICUに数日間。約3週間の入院を余儀なくされた。

井桁弘恵「ホントにもう急に?」

志尊淳
「急に。もう前兆なんて何もなくて
急に立ち上がったら心臓がババババババババッって

で、次の日病院行ったら、「症状が出てる瞬間を見ないと分かんないです」ってなったんですけど。
そのお医者さんが「ちょっと待ってね」つって、電話して。
「ちょっと10分だけ。ちょっと急病であけられる?検査」みたいな感じで。
「分かりました」つって、こう検査して…心エコーっていうのを撮って。

先生が走ってきて。「志尊さん。えっと、今日今から緊急入院・緊急手術します」ってその場で言われて。
「は?」みたいな。
「いや、僕あの今日も仕事だし。明日も仕事なんで…」。
(先生が)「あ、もうそんなこと言ってる場合じゃない」って。
「もう動かないでください」って。「もう一瞬も動かないでください」みたいな。

で、手術台にこう寝て。まあ、麻酔してちょっとウトウトして。目開けたらICUにいて。
ウツロウツロに起きてたら、母親の声が聞こえたんですよ。「え~」みたいな。

で、なんだろう?と思ったら、まあ先生と母親が来て。
「まあ、お母さんには説明したんですけど、病気の説明をします」つって。
急性心筋炎・心膜炎です。えっと…死亡する確率もあります」急に言われて」

山崎育三郎「でもその先生、チョット10分だけ緊急にっていうそれがなかったら…」

志尊淳
「で、それ後から聞いたら、「実は半年前ぐらいにもっと若い子で同じ症状で来た子が亡くなったんです」って言ってて。
だから結局、安静にすることしかできないんですけど、負荷をかけることで悪化する可能性があったんで。
仕事…そのまま検査しないで仕事行ってたら、じゃあ今どうなのかっていうのは、ちょっと正直分かんないっすよね」

 

死を感じた時の思い…毎日母に送った遺書のようなLINE

山崎育三郎「その時って何を一番想うんですか?そうなった時に」

志尊淳
「僕は、もっと会っとけば良かった人とか、なんか…(涙が出そうになり言葉につまる志尊さん)もっとこう…(目が潤み言葉につまる)想いを伝えておけばよかったみたいな、正直。
みたいなのが強くて。

後悔みたいなのがすごいブワーッときたんですよね、最初は。

けど次に来たのが、あのーまあ、家族が心配してるし。

もし僕がこのまま死ぬようなことがあった時に、なんか、あのー…後悔してほしくないっていうか、家族に(涙ぐみながら話す志尊さん)。

それぐらい俺は幸せだったし、大好きな家族だったっていうのは伝えられれば、僕がもし死んじゃっても家族はなんか後悔ないかなみたいなのもあって(涙声になりながら話す志尊さん)。

で…そうですね。(涙が目に溢れてくる)毎日まあ遺書みたいなのを送ってましたね、なんか。
まあ、朝起きたらとか夜寝る前とかに。
まあ、「大好きだよ」みたいなこと言って。
まあ、文章にも遺書書いてみたいなのを送ってましたね」

山崎育三郎「後悔ないように自分の想いを全部伝えたいっていう気持ちだった?」

志尊淳「そうですね。はい」(うなずき、溢れてきそうになる涙を手で抑える志尊さん)

 

母の思い…明るく大丈夫と言っていたが、遺書みたいなLINEが来て

井桁弘恵「お母さまにその当時の心境をお聞きしました」

 

質問 病気が分かった時の心境は?

志尊母
「私は大丈夫としか思わなかった
私はとにかく明るく「大丈夫だからね」って笑いながら帰って行ったんです。
手術が終わった次の日だったかな。(涙で目が赤く潤む志尊さん)
なんか遺書みたいなLINEがきたんですよね。
うーん。そのLINEがきて、涙が止まらずに。悲しかったのを覚えてますね。

なんか私が何もしてあげれなかった。私が楽観的になんか…私がホント代わってもちろんあげたかったなって想いが強かったですけど。(想いが溢れそうになり唇が震える志尊さん)
でもなんか、本人は「こんなに辛かったんだ」って言ったのに。
なんか私なんて母親なんだろう…と思っちゃいましたよね(涙が溢れそうになり目をつぶる志尊さん)

「大丈夫 大丈夫!」なんて言っちゃって。無神経だなって思ってみたりとか(笑)
反省もしたりとかもしましたけど」(鼻をすすり、涙が一筋こぼれる志尊さん)

 

そんな母も実は家では…

志尊姉
「え、なんか朝起きたら、(母が)泣いてたりして、リビングで。
それを見て私もやっぱ動揺はしていて。
まあ、前向きではいたんですけども、やっぱりどうなるか分からないし(涙が目に溢れてくる志尊さん)最初の頃は…(淳が)ICUに入っていた時。

なのでなんか、母も朝起きたら結構泣いてる姿を見て。
「え、なにが?大丈夫かな…」と思って。でも、最初の1週間くらいは結構怖かったですね。
もうホント淳を信じて待つしかなかったですけど」

 

志尊さんが遺書を送った時の思い…

(スタジオで)

山崎育三郎「お母さんも「大丈夫 大丈夫」って言ってましたけど、家ではね?1人で泣いてたっていう」

志尊淳
「「大丈夫だから」って笑って帰ってたんですけど。
なんか、絶対家で泣いてるだろうなって思ってたんですよ。(涙ぐむ志尊さん)
で、そん時に、なんかこのまま僕が…(涙をこらえる)もしなんかあったら…。

なんか母親がそれをずっと…(涙声になり唇が震える)あの…背負ったまま生きていかなきゃいけないのかなって思うと、逆に僕はそんな想いにさせたくないと思って(涙声で鼻をすすり、涙が溢れそうになる)。

だから、あの…ホントに母親の子どもで生まれて幸せだったってことをしっかり伝えたいなと思って(涙声になる)…遺書にしましたね」(涙が溢れ、一筋の涙が頬を伝う)

山崎育三郎
「でもその経験が淳ちゃんあって。(涙を手で拭う志尊さん)
それを言葉にして家族に伝えられたっていうのは、すごく素敵なことだよね」

志尊淳
生きてる事って、こんなに幸せな事なんだなというか。
なんか当たり前に感じてることも当たり前ではなくて。
だから、いつ何時何が起こるかって分からないじゃないですか。(頬っぺたの涙を手で拭く志尊さん)
だからまあより、今を大事にしたいし。家族や周りの大切な人を大切にしたいなって気持ちにはすごいなりました」

 

最後に…現在の息子の姿に思うこと

こんなに立派になってくれてありがとう

井桁弘恵
「まさにお母様と二人三脚で歩んできた志尊さんですが、最後に最近嬉しかった瞬間、幸せを感じたことは?という質問をしてみました、お母様に。
何と答えられたと思いますか?」

志尊淳
「なんか最近韓国アイドルの推しができたみたいで。
夜な夜なYouTubeで(笑)。なんか急に韓国語の勉強し始めたなとか思ってたんですけど」

山崎育三郎「それが最近のお母さんの幸せ?ちょっとした幸せ?」

志尊淳
「だから、「韓国行きたいな、淳ちゃん」とか言うから。
この間も連れて行ってあげたりしたんですよ。そういうことなのかなって思いますけど」

 

質問 最近嬉しかったことは?

志尊母
「先日ファンクラブ(イベント)をやったんですけど。
その後に打ち上げみたいなのがあって。
私もその場にお邪魔…初めてしたんですね。その打ち上げっていうのに。
そこで振る舞ってる淳の姿を見た時は、本当に嬉しかったですよね。

ああ、立派にやってるな」と思って。
「こうやって一生懸命やってるんだな」っていうのは、本当に感動でしたね。
あの淳が一端(いっぱし)になったな」と思って、もうホントに。(涙ぐむ志尊さん)
大したもんだ」と思ってね、あれは。(小さくうなずく志尊さん)
その姿が見れて凄く嬉しかったですかね、最近です。

あのちっちゃい時、子育てに苦労した私に「本当に将来は大丈夫だ」って言ってあげたいくらいですよね(笑)
こんなふうに成長してくれると夢にも思ってなかったですからね。
だからもう本当に淳にはありがとうっていう気持ちです。
こんなに立派になってくれてありがとうって(笑)」(涙ぐむ志尊さん)

 

息子志尊淳さんへメッセージ
「芸能界という場所で、大人としての責任や重みを感じ、悩みながら誠実に向き合っている姿をそばで見ていて、我が子ながらとても尊敬しています。
これから先もいろんなことがあると思うけど、今まで通り一緒に乗り越えていこうね。
淳が幸せでいてくれることが、ママにとって一番の幸せです」

 

山崎育三郎「韓国アイドルじゃないじゃないですか(笑)」

志尊淳「全然違いましたね(笑)」(涙ぐむ志尊さん)

山崎育三郎
「淳ちゃんのファンクラブイベント。
今回色んな子どもの頃からの人生振り返って色んなこと話して来ましたけど、なんか自分にとって気づきとかありました?」

志尊淳
「プライベートでも一切泣かないし。ああ、俺そんな気持ち持ってたんだみたいな。
でもせっかく泣き顔なんで。これをこのまま(写真で)撮ってほしいかもしれない。
これが今の僕の気持ちっていう。
やっぱ母親に「え、今日おしゃれクリップでしょ?どうだった?」みたいな絶対連絡くると思うんで。
「まあ、普通だった」って言っときます(笑)」

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