2011年に相方稲田直樹とアインシュタインを結成
2018年に「NHK 上方漫才コンテスト」で優勝
東京進出後もバラエティー番組で活躍
そんな河井ゆずるが、今回自身の壮絶な家庭環境をせきららに明かしてくれた。
母子家庭、親の借金、中1からアルバイト
河井ゆずる
「まあ、あのうち母子家庭で。まあちょっとそのー親の借金とかもあったので。
まあ僕が中学入ったぐらいから、もう僕はアルバイトしだして。
まあそれを、まあほんまに焼け石に水ですけど、まあ家に給料を渡してたっていう感じですね」
スタッフ「習い事とかは?」
河井ゆずる
「あーもうそうですね。習い事は月々500円の子ども会の野球だけやらせてもらってたんですけど。
弟は母に「すまん辞めてくれ」って言われてましたね。
2人分はちょっときつかったんかなぁ。分からないですけど、はい。
母親が明るい性格というか。まあ、能天気いうか。
「貧乏で何がアカンねん!」みたいなタイプだったので。
まあまだなんかそれで救われてる部分はありましたけど。
うん。でも今で言うそのヤングケアラーみたいなことだったのかなぁとは思いますけど、はい」
※ヤングケアラー…本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子ども・若者のこと。責任の重さから、学業や友人関係などへの悪影響が懸念されている。
河井さんは、高2年生の時、住む環境もままならなかったという。
河井ゆずる
「住んでたボロアパートの家賃が払えなく…来月もうちょっと「来月の分がヤバい」ってなった時に、母親が本当に何のツテをどう辿ったんか分かんないですけど。
雑居ビルの屋上のプレハブにだったら住めるっていう話をどっかからもらってきて。
で、住むという事になったんですけど。
ホンマに最初初日に行った時は、モップとほうきとバケツとホースと。
もう掃除道具が入ってて。
それをみんなでのけて。
ホームセンター行ってフローリング買ってきて、フローリングひいて、そこに住んだって感じです。
その「周りにどう思われてんねやろ」とか、周りの目を気にする余裕がないぐらいツラかったかも分かんないです」
ヤングケアラー当事者としての経験。そして、大人になった今の本音を文章にしてもらった。
河井ゆずる
「そんな影響力のある人間じゃないですけど。僕が少しでも発信することで、なにか誰かの役に立てばってもうホントそれしかないので。
「いや俺もう分かんねえよ」とかあると思うんですよ。
でも、もう分からなくていいし、その詳しく調べなくてもいいから、なんかちょっとだけでも頭のホントに片隅にだけでもいいから、置いといてほしいなと思います」
(スタジオで…)
ウエストランド井口
「あのプレハブの話も、あのバラエティでは面白く言って、僕らも笑ってますけど。
芝さんはゆずるさんと同期なんですかね?」
モグライダー芝「そう同期で(芸歴22年目同士)。たまに一緒にご飯食べたりとかあるけど」
ウエストランド井口
「そうっすね。まあ、ご本人は本当に明るくて。
ほんとにお花見とかで何十人集めるみたいなね、人ですから。
だから、そのある意味つらい過去とかは微塵も見せないというかね。
で、たぶん、まあご本人もおっしゃっていたように、ちょっとでもみなさんがこれで知ってくれたらとか」
「ヤングケアラーを経験した本音」 文・河井ゆずる
『アインシュタインの薄味の方、河井ゆずるです。
僕は3歳の頃から母子家庭で、母は女手一つで僕と弟を育ててくれました。
母は喫茶店を経営する傍ら、知人のスナックへアルバイトに行ったりしながら僕たち子どもを育て、祖母の入院費を何とか工面していた。
そんな河井家が火の車であるという事は、小学校低学年である自分にも理解できた。
誕生日やクリスマスで欲しいものをプレゼントしてもらう、なんていう事は当然なく。
それどころか、クリスマス前夜、弟と2人で枕元に置いていた靴下を翌朝起きると母がはいていた事すらあった。
そんな中、僕が中学の入学式の帰り道、母が急に僕に「おめでとう」と言ってくれた。
明るい性格ではあったが、面と向かって褒めたりお礼をいったりができない不器用な所もある母だったので少し面食らっていると、続けて「これでゆずるも働けるな」と。
無事に中学校に入学できたお祝いではなく、家計を支える戦力としての、入団通知としての「おめでとう」でした。
結果、僕は中学1年生の終わりから、地域新聞の配達と知り合いの酒屋、そして乾物屋の内職、とアルバイトをするようになった。
そして、僕が高校2年生の時、喫茶店の経営が厳しくなり店を畳み、母はフリーターとしてラーメン屋でアルバイトをするようになる。
しかし、更年期障害がひどく、母がパートに行けない日には、僕が代わりにアルバイトへ行ったりしていた。
そうして何とかギリギリの生活をしていたある日の夜中、「話がある」と僕だけ起こされた。
母は千代の富士の引退か池によろしく、僕に「体力の限界」とだけ言った。
今から思うと、体力も気力も本当に限界だったんだと思う。
その当時住んでいたアパートの家賃が払えなくなり、来月からどうしようか、どうしたらいいか途方に暮れていた時、数少ないツテを辿って辿ってアパートを追い出されるギリギリで貰えた話が、飲み屋街の雑居ビルの屋上のプレハブに住むというものだった。
絶望で目の前が真っ黒になったと同時に、それは幼い頃から吉本に入る事が夢で叶うと信じてやまなかったその夢が消えたと確信した、確信させられた瞬間でもあった。
でも、本当に人生で一番きつかったのは、ここからだ。
夢が絶たれたという事も勿論そうだが、とにかく雑居ビルの屋上、しかもプレハブに住むというダブルパンチを食らいながらの生活に全然慣れなかった。
そこに住む条件として、夜中でも早朝でも関係なく酔っ払いが鳴らす非常ベルの対処、各フロアにされる糞尿の掃除、ビルの清掃までしなくてはならなかった。
芸人の夢をあきらめたというより、その時は弟がまだ高校生だったので、「あ、やられへんな」という感覚だったように思う。
なかなかあきらめがつかない日々が半年くらい続いた時、「いつまでも未練を抱えながら生活してても何も良くならない」と思い、「自分の今世は弟と母親を支える人生だ!」と心に言い聞かせて、そこからはアルバイトを5つ掛け持ちし、朝から晩まで馬車馬のように働いた。
給料は全額家に入れ続け、弟も大学へ行かせた。
しかし働き始めて5年、過労で倒れてその時の仕事を全部辞める事になった。
ただその頃には、5年間お金を入れ続け、弟もある程度はアルバイトもしていたので、生活がほんの少しだけマシにはなっていた。
リハビリをしながら就職活動をゆっくりと始めていたある日、何社も連続で面接に落ちて途方に暮れながらトボトボ帰っている時、「芸人になるなら今しかない」と思い、NSCの願書を取りに難波へ向かった。
その日が願書の締切前日だったこともあり、何も考えずにその場で記入して提出した。
そうして一度はあきらめた芸人の道に進み、初めの10年はアルバイトをしながら、家にお金も入れ続けながら、何とか辞めずに、今は22回目の春を迎えることができた。
全然売れてるわけでも、何か大きな賞レースでチャンピオンに訳でもない僕がおこがましいかもしれませんが、NSCに入った当初から何をモチベーションにこの仕事をしていくのかをずっと考えていました。
それは僕が働いていた時の先輩に、「ゆずるの使命は何?」と聞かれたことがあったからです
「使命」。意味は勿論知っていたが、二十歳の自分には到底見当もつかない質問だった。
そんな僕に先輩が「ゆずるが生涯、何に命を使うか考えて行動する、そんな大人になりなさい」と。
それ以来ずっと自分の使命が何か考えながらアルバイトをしていたが見つからず。
ただ、この仕事に就けるようになった時、点と点が繋がった気がした。
改めて自分の生い立ちを考えたときに、僕は世界の子どもを救うような器の人間でもなければ、地球温暖化に目を向けられるような余裕も、動物愛護を唱える行動力もない。
自分は母子家庭で育ちました。
ただ、ご両親が事故で亡くなられたりとか、育児放棄でとか、その他にもいろんな環境でその環境を選べないまま両親がいないような子達、生まれて育ったこの国の子どものためになにかできたらなと思うようになり、2018年から児童養護施設への寄付を始めました。
阪神淡路大震災で被災した経験から、去年は能登半島地震の復興ボランティアにも参加させていただきました。
日本ではまだ寄付やボランティアと言うと「売名行為だ」とか「綺麗事だ」と言う人もいるだろうけど、僕はそんな人達はどうでもよくて。
そんな言葉を真に受けて、へこんだり悩んだりすることには1秒たりとも時間を使いたくない。
芸人という仕事を通して、社会のために何ができるのか。
自分の延長線上でできることを継続して発信していけたらなと思います。
今僕と同じようなヤングケアラーの子どもたちには、言葉を選ばず本当の本音で言わせてもらえるのなら、「諦めずに死ぬ気でやれ」と言いたい。
ただ、皆それぞれ性格も違えば環境も違う。
諦めずに死ぬ気でやるやり方すら分からない子達も沢山いると思う。
だからまず、困っているなら、もう街を歩いている人でも、近くの交番でもなんでもいいから、とにかく一人で抱えずに、周りの人に助けを求めてみてほしい。
自分の環境を呪ったり、人の環境を妬んだりしても、状況は何一つ変わらない。
どんな状況においても自分の人生を切り開いたり、運命を変えたりするのはやっぱり自分しかいないので。
悲観的にとらえないで、何を言われても立ち上がり続ける。
本当に笑える日は必ず来るから。と今強く思います。
こんな拙い文章でも誰か一人でもいいので、気持ちが晴れてくれたら嬉しいです。』
河井ゆずるさんの文章を聞いて
ウエストランド井口「どうですか?芝さん聞いてみて率直な感想は?」
モグライダー芝
「いやなんか、ゆずるってやっぱさっきも言うてたけど。
もうホントにずっと明るいし。こうみんな周りに寄ってくるし。
自分自身めちゃくちゃ何て言うの…面倒見もいい。
なんか、こういうのを経てるからっていうのもでかいんだなっていうのがなんか分かるね」
ウエストランド井口
「一番刺さるのはやっぱ夢を諦めなきゃいけないっていう。
たぶんこれが他のヤングケアラーと呼ばれる方たちのなかでかなりの悩みになって来るんじゃないかっていう」
モグライダー芝
「そうかもね。今回の人生はもうダメなんだなみたいにね。この若さで一回思っちゃうって」
ウエストランド井口
「だから他のね、今悩んでる子達も、例えば野球選手になりたい、サッカー選手になりたいとか思ってても、クラブに行くお金も時間もないとか」
モグライダー芝
「思い出したけど、太田プロかな…おばあちゃん芸人みたいな人いるじゃん、たまに。
もともと子どもの時にね、長嶋茂雄さん家の近所に住んでた時があって。シゲちゃんって呼んでたんだって。
で、「シゲちゃん子どもの時から野球上手だったけど、シゲちゃん家の向かいのなんとかくんっていう子の方が上手かった」んだって。
で、シゲちゃんもなんとかくんのマネばっかして野球やってたんだけど。
その何とかくんは家がお金なくて野球続けられなかったんだって。
だからもしかしたら、そのままやってたら、国民的スターだったかもしれないみたいな。
いや、そんなんがね。いるんだろうね」
芸人として食えてない時父親になったモグライダー芝さん。
モグライダー芝「俺は子供もいるからね」
ウエストランド井口「もっと言うと、M-1とかでバンといく前に、お子さんも生まれてとかですもんね?」
※モグライダー芝さんは2020年第1子誕生 2021年M-1決勝進出
モグライダー芝「そうだね。上の子は、もう生まれちゃってたから」
ウエストランド井口「そん時に、リアルにどういう気持ちだったんですか?生活とか」
モグライダー芝
「あのね。まあ当然、全くお笑いの給料なんかないし。
まあ、なんかバイトはしてたけど。
でもほぼ、カミさんの稼ぎでどうにか生活してるみたいな感じだったし。
で、ちょうど世の中がコロナ禍に入るのとほぼ同時位に上の子が生まれたのよ。
だから、そこで変な話「運が良かったな」と思ったのは、別に俺以外も全員キツかったから。
だからあんまり悲観的にもなんなかったし、あれだけど。
次、2年くらい経って、2人目が腹にできるの。
その時がまだM-1決勝行くちょい前で。そん時はさすがに「あ、ヤバいかも…」みたいな。
あのーこれで(M-1決勝)決めなかったら、もう流石に全部辞めなきゃかなとは思って。
そういう時に限って、かもめんたるの槙尾から電話がきて。
「マキオカリーの吉祥寺店出すから店長やらない?」みたいな話がくんのよ。
めっちゃ迷ったもん」
ウエストランド井口「いや~。でも、まあでもそうですよね」
モグライダー芝
「外から見ればさ、「そのお金もないのになんで子ども作ってんの?」とかっていうことじゃん。変な話。
「自分でしんどくなってんでしょ?」っていうのもまあ自分でも分かるし。
ただやっぱ俺らとかなんて、売れてない時は、うちのカミさんなんてもう十何年付き合ってだから、幸せはどうにかは保証しないととか思ってくると。
なんかお金だけでもないだろうけど。やっぱりある程度はないと、気持ちの余裕もなくなるし」
ウエストランド井口
「2011年に東日本大震災があって、まあ空気的にも大変な中、ラジオ…まあ全部の番組当時は中止になってましたけど。
1週…まあ2週ぐらいしたときかな。
まあ、ラジオでTBSのJUNKが10分ずつ、なんか生放送するってなって。
で、爆笑(問題)さんのカーボーイも10分だけやるって言って。
まあ、ちょっとおちゃらけつつも。
まあ、そんとき太田(光)さんが言ってたのが、やっぱみんなあの時テレビ観てつらいし、何とかしたいけど何もできないみたいなことで悩んでましたけど。
「何もできない」って悩むことも今できることの一つだって言ってて。
まあ、確かにそれで救われたなというか。
なんかしなきゃ。こういう震災とか恵まれない人にって言う時に、なんかしなきゃ何にも出来ないってことで落ち込むより、こうやって知る事も1個ね、大事な事なんだなと思って。
まさにゆずるさんが言ってたようにね、頭の片隅にでもいいからこれを置いといてくれっていう。
僕らがそれこそ学とかないから、じゃあこれで何していいかとかって分かんないですもんね。何も思いつかないし。
なんかその…なんか寺子屋みたいなの作るのが良いのかとかなんも分かんないじゃないですか」(笑)
モグライダー芝
「いや、違う。それではないだろ(笑)!分かるだろう。
なんでお前が寺子屋作るんだよ(笑)」