昭和、平成、令和。3時代すべてでオリコンチャート1位を獲得した初の女性アーティスト。時代を超えて愛されるシンガーソングライター。
林修「ほとんどテレビに出られないですよね」
竹内まりや「そうですね。テレビはちょっと遠のいてました」
林修「そんな中で、今回出てくださるのに、何か決め手はあったんでしょうかね?」
竹内まりや
「(番組のスタッフが)ものすごい熱量で(笑)。
「出てください。この番組出てください」っていう。はい。
それで、「林先生は絶対変なこと聞かないから」(笑)」
現在でもCMに使われ、歌われる名曲ばかり
37年前(昭和62年、1987年)にリリースした曲「元気を出して」が、今CMに使われたり
(アサヒ生ビールマルエフCMソング)。
♪人生はあなたが思うほど悪くない 早く元気出してあの笑顔を見せて)。
クリスマスの訪れを知らせる風物詩的な名曲となった「すてきなホリデイ」(平成13年(2001年)リリース)
♪クリスマスが今年もやって来る 悲しかった出来事を消し去るように。
河合奈保子の「けんかをやめて」も竹内まりやが生み出した時代を超える名曲。
2019年紅白歌合戦で披露した「いのちの歌」は中学校の道徳の教科書にも掲載され、いまや学校の合唱曲の定番。
プラスティック・ラブが世界中の若者に大ヒット
そして、令和になった今、40年前にリリースした曲が世界中の若者の間で大ヒット。
それが…昭和59年(1984年)にリリースした「プラスティック・ラブ」
♪私のことを決して 本気で愛さないで
林修「プラスティック・ラブが、令和の今、海外で最もヒットした邦楽と言われるほど、注目されておる」
竹内まりや
「これも本当に不思議な現象で。
あの、なぜ40年前のあの曲が海外のそのみなさんに取り上げられたのか。
どこでどういう風にそのムーブメントが始まったかはちょっと私も分からないんですけれど。
(夫)山下達郎ともよく分析してみるんですけれども。答えがなくて。
まあ、あの時代に私たちはいわゆる洋楽を目指して、試行錯誤して、ああいう音楽をやってたものが、40年後にその本場の洋楽の人たちが聞いて、それをいいと思ってくださるっていうのは、もしかしたらそこにある普遍性というか…。
あと、まあマシンプレイではなくて、その人力プレイのその良さみたいな。
そのグルーブをもしかしたら感じてくださっているのかなと。
でも、すごくありがたい現象ですし、最近はあの、海外の若い人からファンレターをよくもらうんです。はい。」
多くのアーティストがカバー…藤井風さんの動画を見て「契約した方がいい」とレコード会社に提言
プラスティック・ラブは新しい学校のリーダーズや藤井風がデビュー前に弾き語りでカバーしていたことで知られている。
さらに、オリコン週間ランキングでは、令和の時代にレコード番が5位にランクインする異例の現象が。
林修「で、さらに海外でヒットして、逆輸入のような形で、今日本の若いアーティストたちが続々と歌われている」
竹内まりや
「そうですよね。それも嬉しいなと思っていて。
藤井風さんが、たぶんデビューされる何年か前に、弾き語りで、お家のピアノでこの曲を歌ってらっしゃるYouTubeを見つけて。
あ、私の曲カッコ良く歌ってくださってる方がいるってすごく才能を感じたので。
レコード会社の方に言って、「彼と契約した方がいいですよ」って言ったんですけど。
何かその2年後くらいにやっぱり他のレコード会社からデビューされたところを見ると、もう既に、もしかしたらお話が決まってたのかもしれないんですけど…」
夫・山下達郎さんの素晴らしいアレンジの力
実はこの名曲「プラスティック・ラブ」が生まれた裏側には、夫である山下達郎の存在が大きく関係していた。
竹内まりや
「なんかこう、自分の中ではあんまりない感じの16ビートのちょっとダンサブルな曲で。
まあ、都会の孤独みたいなものを書いてみようって思って。
ちょっと(夫)山下達郎が驚くような曲を書こうかなって勢い込んで書いた記憶があって。
なんか達郎が歌いそうな曲をちょっと書いてやれみたいな感じで。そんな感じでした。
それをうまく、すごく良い形でアレンジをしてくれたので。
あのアレンジの力も大きいと思いますね。
まあ、どういう風な歌謡曲的な曲を書いても、達郎がアレンジすると、どっかポップスになるので。そこは安心なんですよね。ド歌謡曲にはならないので。
林修「そこは、他のアーティストに比べて随分有利な立場にいらっしゃいますよね?」
竹内まりや
「はい。本当に。はい。そう思います。
同業者とはいえ、私のアレンジャーであり、プロデューサーであり。
何か作詞作曲に関しては自分でやりますけど。
これをこういう風にお料理して、こんなタイプの楽曲に仕上げてほしいっていうのは彼に託すと、それを具現してくれるわけですから。
それはありがたいですよね」
山下達郎さんとはケンカにならない相性
ケンカするのがお互い好きじゃない
林修「え、あの。達郎さんとけんかはすることはあるんですか?」
竹内まりや
「喧嘩にならない相性っていうのがあるんだなと思ったんですよ。
あの、努力してその人に合わせて、喧嘩にならないようにするっていうことではなく。
たぶん…なんだろうね…。これ、私は相性としか言えないと思うんですよ。
あの、ディスカッションはすごくします。
あの、論議というか、口論というか。ずーっと理詰めで話していくので。
必ず、じゃあこことここは意見があったねと。
ここは合わないけど、でもあなたはそういう考え方で、私はこういう考え方だねっていうのをお互い認め合って終わるので。
たぶん、喧嘩するのがお互い好きじゃないっていうことなんだと思うんですね。平和が好き」
林修「じゃあ、お2人ともご家庭においては、「けんかをやめて」は必要ない」
竹内まりや
「うまい!
犬を飼うか飼わないかであの新婚の時に喧嘩したのは、たぶん一番大きな喧嘩だったと思います。
でもそれは最後だと思います」
林修「じゃあ、達郎さんは反対されたんですね?」
竹内まりや
「反対したんですね。その、もう絶対私が面倒見るからって飼ったんですけど。
まもなく私は出産してしまったから、散歩係は達郎になってしまったという。(笑)
ちなみに、林さんはどうなんですか?ご夫婦の関係は」
林修「どうなんでしょうね。まあ、僕はとにかく服従しないと。あの終わらないので。まあ、非常に厳しい状況」(笑)
サザンオールスターズの桑田佳祐&原由子夫妻とも仲良し
夫であり、最も尊敬するミュージシャンでもある山下達郎が竹内まりやの楽曲をアレンジ。
まさに、音楽界最強の夫婦。
実は、もう1組の超ビック夫婦。サザンオールスターズの桑田佳祐&原由子夫妻とも大の仲良し。
4人でレコーディング&銀婚式のパーティーも一緒に
林修「過去にはサザンオールスターズの桑田夫妻とレコーディングされた時も?」
竹内まりや
「はい。そうですね。あの佳ちゃんと由子ちゃんに来てもらって、4人でハモったんです。はい」
林修「豪華な最高のミュージシャン夫婦が2組」
竹内まりや
「はい。あのサザンオールスターズは私とやっぱり同期で。
それでまあよく、テレビのスタジオとか。それから、夏の音楽のフェスみたいな所でお会いして。すごく親しくなってて。
結婚25年の確か銀婚式のパーティーも一緒にやったと思いますけど。
なにかにつけ、佳ちゃん、由子ちゃんはLINEでやり取りしたりして。
親しくさせていただいてます。
すごくいいんですよ。2人のその声が入ると、よりこう幅が広がって。
なんかこう人間味が出るっていうのかな。
あの佳ちゃんのあの声と由子ちゃんのが重なって。
だから、あのコーラスは本当に貴重でしたよね」
学校で子供たちのために桑田佳祐&山下達郎が童謡を歌う
さらに、プライベートではこんな出来事も。
竹内まりや
「私はちょっとそんなになかったんですけど、ファミリーフェア(学校行事のバザー)みたいな集まりの時に、音楽の先生が桑田さんと達郎を指名して、壇上に上がって子供たちのための歌うたったってことは言ってました」
林修「その先生勇気ありますね」
竹内まりや
「どんな歌だったの?ってこの前聞いたら、なんか「蚊が飛んで来たよ~♪」とかいうそういう子供の童謡みたいな歌を佳ちゃんと2人でやった」
林修「でも、そもそも指名した先生に一度お話伺いたい」(笑)
代表曲の作成秘話
数々の名曲を生み出すヒットメーカーでもある竹内まりやさん。
これまでに楽曲提供したアーティストはその時代を代表するスターばかり。
例えば…松田聖子、木村拓哉、沢田研二、アン・ルイス、嵐、芦田愛菜など。
その竹内まりやの楽曲の中で、最もカラオケで歌われていたのが…
昭和62年(1987年)リリースされた「駅」。
♪懐かしさの一歩手前で こみあげる苦い思い出に 言葉はとても 見つからないわ
この曲は、もともと中森明菜さんのために書き下ろした楽曲でした。
楽曲『駅』(中森明菜)「哀愁のメロディー 昔の東横線渋谷駅がイメージ」
林修「まず、「駅」。ご自身にとってどんな曲なんでしょうか?」
竹内まりや
「「駅」はあのー、(中森)明菜ちゃんに書くんだったら、思いっきり哀愁のメロディーで、なんか切ない悲しいストーリーにしたいなって思ってて。
で、そのイメージをこうもっと高めるために、ダイニングテーブルに明菜ちゃんの今までのアーティスト写真とかあの(CD)ジャケット写真とかをずらっと並べて。
それでずーっと考えてて。
あ、なんか昔の恋人と駅で再会して。まあ、でもそれぞれに別れていく。
で、向こう(相手)は気づかないみたいなストーリーがちょっと浮かんで。
こう小説を書くみたいな感じで、ストーリーにしていったっていう。
そういう記憶があります」
林修「駅っていうのはどこの…具体的な駅のイメージはあったんですか?」
竹内まりや
「私の中では、昔の東横線の渋谷駅の改札口に向けてこうザーッと人波がこうね、動いていく様を。あの日吉からこう帰る時によく体験してたので。
たぶん、それがイメージとして」
駅の歌詞
♪『今になってあなたの気持ち 初めて分かるの 痛いほど 私だけ 愛してたことも』
竹内まりや
「ホントは私だけを愛してくれてたんだなって思いたいその主人公がいる。
もしかしたらそうじゃないかもしれないけれど、私だけ愛してたってことにしたい自分がいるんじゃないでしょうかね」
楽曲『けんかをやめて』(河合奈保子)「何様ソング!?作曲家・筒美京平さんに褒められた」
林修
「そして、まあ代表作の1つと言っていいでしょうけれども。
河合奈保子さんが歌われた「けんかをやめて」で。
あれも強烈に女性がイニシアチブ(主導権)を握っている」
ケンカを止めて歌詞
♪ けんかをやめて 二人を止めて 私のために争わないで もうこれ以上
竹内まりや
「何様ソングと言われてるんですけど。
でもあの、2人の男の子の間に揺れ動く心みたいなのを奈保子ちゃんが歌ったら素敵かなと思って。
後でセルフカバーして自分で歌ったら、すっごいなんか嫌な人みたいな。
そういう自覚はあったんですよね。
だから、何様ソングって言ってるんですけど。
でも、この曲をね。(作曲家)筒美京平先生が、「そうそう、まりやさんね。河合奈保子ちゃんの「けんかをやめて」ってあれいい曲だねって褒めてくださったんですよ。
で、天下の筒美京平先生が、私の楽曲をほめてくださったっていうのを。
なんかお墨付きをもらったみたいで、めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えてるんですよ。
あれはいい曲だっておっしゃったときに、なんかすごい自信がついたのを覚えてます」
※作曲家 筒美京平さん
代表作「木綿のハンカチーフ」「魅せられて」「ブルーライトヨコハマ」「また逢う日まで」など
楽曲『元気を出して』 離婚した大好きなシンガーを励ましたいと書いた曲
日常の景色から生みだされた竹内まりやの楽曲は時代を超えて長く愛される力を持つ。
37年前に発売された「元気を出して」は昭和、平成、令和と色あせることなく、数々の人気歌手にカバーされている。
林修「「元気を出して」。これはどんなふうに作られた楽曲なんでしょうか?」
竹内まりや
「これは、私の好きなカーリー・サイモンっていう(70年代を代表するアメリカの)シンガーソングライターがいて。
彼女が私のやっぱり好きな(シンガーソングライター)ジェイムス・テイラーっていう方と夫婦だったんですけど。
離婚をされて、もう私はカーリーを励ましたいなと思って。
それで、カーリー・サイモンに私が話しかける感じで書いたのが、あの「元気を出して」なんですけど。
でもアレンジは、ジェイムス・テイラー風にしてねって言って、達郎にしてもらった。
そういう仕掛けがあるんですけどね」
林修「ご主人はオーダーするとちゃんと実現してくださるんですね」
竹内まりや
「そうですね。割と私も細かく言うので。
ここでは必ずハーモニカ入れてねとか。
ギターのカッティングは必ずいれてねとか。
まあ、そういうことも言いますし。
まあ、この「元気を出して」に関しては、「アコースティックな感じで、ジェイムス・テイラーが往年やってたような感じでお願いします!」って。
それが実現できたんでよかったです」
林修「いや、そんなの無理だよって言うときはないんですか?」
竹内まりや
「あんまりないですし。
あと、そうきたか!っていう、その新手のアレンジが来るときもあるんで。
私の想定を超える。
彼自身がやっぱり、すごいボーカリストでもあり、なおかつプレイヤーでもあり、アレンジャーでもあるんですけど。
その人が、私のために時間を使ってくれていることを…。
それは、ある意味彼の活動を半分削ってるわけですよね。
なので、少し負い目もあるんですけれど。
その分自分が頑張らなくてはなっていう、まあ、そういう励みにもなるし。
悪いなって思ってるところは、本当はあるんですよ。」
林修
「でも実際にホント曲を作られる方からしたら、今のお話を聞いてて。
いや、一家に一台達郎って欲しいって思いますよね?」
竹内まりや「欲しいと思うと思います」
楽曲作成について
面白い言葉はメモ&メロディーを作ってから歌詞を付ける&最後は達郎さんのアレンジ
このように人々の心に突き刺さる竹内まりやの楽曲は、ある意外な場所で作られていた。
林修「基本的には、作詞作曲はどの風に普段はなさるんですか?」
竹内まりや
「普段は、自由に書いていいですっていう時は、もういろんなものを見聞きした中で、何か閃いたら、あのメモを取っとく。
あの、メモ魔なんですけど。面白い言葉があったら、ちょっと書いておく。
「今でしょ」とかね。」(笑)
林修「書きました?ほんとに。ちょっと、使いにくかったですか?」
竹内まりや
「そういうのを書いておいて。で、後でこう引っ張り出したりするんですけど。
でも大体メロディーが先で。それから歌詞を付けて。
それから達郎に持ってって、アレンジをしていただくという順番なんです」
※歌を作る順番 ①メロディー ②歌詞 ③達郎
ダイニングテーブルで作る曲…シャンプー中に閃くことも
林修「曲はどこで作られることが多いんですか?」
竹内まりや
「大体、家のダイニングテーブルの所にこのくらいのミニキーボードを置いて。
だいたいこう、まずこうさぐっていって。
で、だんだん構成ができていったら、今度は歌詞を…今度はキーボードをこっちにはけて、ノートで。
あの、だいたいダイニングテーブルの上で。はい。
でも、一番メロディーとか歌詞が浮いてくるのは、シャンプーしてる時なんです。
泡だらけで。こう無になってシャンプーしてると、なんか降りてくるっていうか。
何て言うのかな…あのフレーズハマった!っていうのがあって。
こう、(お風呂場から)飛んで出て。
で、ちょっとアイフォンに(声を)入れるとか。スマホに。
そういう感じ」
林修「それは今でもなさってる?」
竹内まりや
「やります、はい。絶対に戻ってこないんで。
そこであのもう。何て言うのかな…忘れちゃったら…一晩おいたら、絶対にもうよみがえってこないので。
その時に入れとくっていう」
【衝撃の事実!】山下達郎さんの名曲『クリスマス・イブ』は竹内まりやさんが歌うはずだった!
そんな竹内まりや・山下達郎夫妻と言えば…
クリスマスには必ず耳にする「すてきなホリデイ」
♪クリスマスは今年もやって来る
そして、山下達郎さんの「クリスマス・イブ」(昭和58年、1983年 JR東海CMソング)
クリスマスソングを独占している夫婦。
しかし、衝撃の事実が!
実は、「クリスマス・イブ」も竹内まりやが歌うはずでした
林修「クリスマスというと、いつもご主人の…」
竹内まりや「クリスマス・イブですよね?」
林修
「ええ。あの曲がもうこの国中で流れますけれども。
お2人で日本のクリスマスソングを独占するってこれ…」
竹内まりや
「そういうつもりはないんですけど。
でも、元々あの「クリスマス・イブ」は、えっと私のアルバムのために彼が書いた曲がボツになってたんですって。
ディレクターさんがこれはなしって言ってボツにされてたのを掘り起こして、彼がメロディーズっていうアルバムに入れたっていう、そういうきっかけだったんですけど。
だから、特にクリスマスソングを書くぞ!っていう感じで書いたわけでもない。
アルバムの曲だったのをまあJR東海のCMで取り上げられたって感じです」
林修「それボツにした方は何故ボツだったんですかね?」
竹内まりや
「どうなんでしょうね?
でも、ボツにされたから彼の曲になり。で、今があるので。
それはよかったっていうことですよね」
(スタジオで・・・)
島崎和歌子
「自慢してもいい?
私、ホント14~5年前に、あのいつものようにカウンターで1人で飲んでたら。
ずいぶんきれいな人が来たなと思ったら、竹内まりやさんで。ビックリ!
えー!と思って。隣に座ったのよ!
「こんにちは!」って言って。もう全然気どりもなく、気さくな方で。
「じゃあ、乾杯ね」とかおっしゃって。
「よくシャンパン飲むわね」って褒めていただいたりして。
「もうちょっと、すいません」とかいいながら。
で、たまたまそこにカラオケがあったんですよ。
「駅」を歌っていただいて。「あら、そう?」って言って。
「♪たそがれの駅で~」って。「ひ~!歌っていただいてる!」って。
一生の思い出です」
歌手デビューからテレビ出演…3年で活動休止に
デビュー後すぐに楽曲が大ヒット
そんな竹内まりやの原点は、慶應大学時代のバンド活動。
昭和53年(1978年)23歳の時にメジャーデビュー
その翌年昭和54年(1979年)「SEPTEMBER」で日本レコード大賞をはじめ、新人賞を総なめ
♪SEPTEMBER そしてあなたは SEPTEMBER
さらにその翌年昭和55年(1980年)「不思議なピーチパイ」が大ヒットし、瞬く間にスターダムへ
しかし、デビューからわずか3年で活動休止。
テレビから遠ざかった。なぜ休んだのか?
今ではあまりテレビに出ない竹内まりやだが、デビュー当時はアイドルのような活動で、よくテレビ出演していた。
最初はアイドルのように様々なTV番組に出演
林修
「当時テレビのなんとなく印象で申し訳ないんですけども、結構アイドル的な出方をしていた時期もあったんじゃないかなと」
竹内まりや
「そうですね。芸能人運動会?みたいなのは、割と出てましたし。
あとあの、バラエティー番組の司会とかもしてましたし。
まあ、割と芸能雑誌のグラビアとか。
そういう撮影のために、どっかロケに出かけるみたいな時間をすごくとられてたので」
入院したのがきっかけとなり、活動休止へ(デビューから3年目)
竹内まりや
「(不思議な)ピーチパイのヒットもいただいて。
あの、順風満帆ではあったんですけれども。
ピーチパイを歌ってた頃に、風邪をひいたのを無理やり歌って、あのもうポリープ寸前でちょっと1週間ほど入院したんですね。
で、入院した時に、何か歌が楽しくて歌ってたはずなのに、今苦しいなって思って。
なんか歌うことが苦しい自分をまあ、人に見せたくもないし。
なんかもっと時間があれば、もっとこう色んな音楽を探して、自分なりの言葉とかメロディーも探して。
で、ゆっくりレコーディングして、1つのアルバムにしていけたらいいなっていう思いがどんどん育っていって。
まあ、フィジカルにやっぱり体調を崩したっていうのは大きかったですよね。
だから1回とにかく辞めて…」
林修「ああ、そうなんですか。じゃあ、辞めることにためらいは?」
竹内まりや「ためらいはなかったですし。あの、1日も早くちょっと休憩したいって思った」
日本レコード大賞新人賞を取ったにもかかわらず、デビューからわずか3年で活動休止。しかし、この休止という経験が、竹内まりやの音楽活動を好転させるきっかけとなる。
活動休止中に結婚 自由でのびやかな日々が新たな想いへ
「歌を書きたい」という思いがわいてくる
芸能界から離れて間もなく、活動休止中に、かねてから交際していた山下達郎と結婚。
私生活が充実していく中、徐々に心境にも変化が。
竹内まりや
「そのお休みしてる間に、とにかく、ああ、これで自分で自由に映画も観に行けるし、ちょっとしたデパ地下で缶詰選んだりとかもできるし。
こんな時間が戻ってきたってことで、すごく伸びやかに生活してて。
テレビも離れて、私生活もなんか穏やかに過ぎていくなかで。
「ああ、なんか歌を書きたいな」っていう思いがふつふつと育っていたんでしょうね。
やっぱり自分の自由な時間をいただいたので」
沢山のオファーが…自分の曲もつくりアルバム『VARIETY』に
竹内まりや
「それで、あの休業したとたんに、(河合)奈保子ちゃんのディレクターであるとか。
それから、岡田有希子ちゃん…岡田有希子ちゃんが一番たくさん曲を書いたんですけど。有希子ちゃんのディレクターの方からも(楽曲提供の)オファーが来て。
どんどんオファーが来るようになって。
それでもう、楽しく書くようになったら、自分用の曲も出来て、「VARIETY」っていうアルバムにいくことになったんですけどね」
林修「その休業されてる間に「プラスティック・ラブ」も作られたんですか?」
竹内まりや
「そうですね。「VARIETY」の中で、「プラスティック・ラブ」を…。
デモテープを達郎に聴かせた時、「あなたこんなに曲を書けるんだったら、アルバムで全曲出しなさいよ」って言って。
「僕がプロデュースするから」っていうことで作ったのが「VARIETY」だったので。
最初は色んな人に書いていただいて。また半分くらい自分で書けばって言ってたんですけど。」
林修「いやいやいや。ちょっとありえないです。だって今のが「全部書いちゃったら?」っていうのが、夫婦の日常の会話なんですよね?」(笑)
テレビに出なくても歌は売れると気づいた妊娠
しかし、宣伝活動を始めようとした矢先に…
竹内まりや
「「VARIETY」を出そうかっていう時に、「あ、ご懐妊」っていうことが分かって。
それで、「VARIETY」は全くプロモーション(宣伝活動)が出来なかったんですね。
あの、お腹が大きくなってて。
で、「VARIETY」を出したら、その休業前に出したアルバムよりもより多くの人が聴いてくださったっていう現象があって。
「あ、もしかしたら、そのテレビとかそういうものに一生懸命でなくても、音楽として純粋に届ければ、聴いてくださる方っていらっしゃるんだ」っていう、そういう確証めいたものをバラエティーのノンプロモーションの時に思ったんですね。
だとしたら、しっかり誠意を込めてちゃんと一つずつ丁寧に音楽を出していく方法を取って。
私は家にいて、例えば子育てをするとか、山下達郎の活動のサポートをすれば、一番バランスよく、自分が精神衛生を整えながら、音楽活動ができる方法だなっていう風に思ったんですね」
シンガーソングライター竹内まりやの生き方が決まった。
私語に行き詰った時に、休む勇気を持ったことで、自分に合ったペースをつかみ、彼女は数々の名曲を世に送り出していく
子育て時期の曲作り
ママ友から聞く話も曲作りのヒントに
林修「でもお子さんが生まれて、その子育てと(仕事)の両立は苦労なさったんではないですか?」
竹内まりや
「そこはあんまり考えなくて。やれる事をやろうと思っていたので。
で、実際に、子供の成長を見届けることはすごく面白いことだったし。
そこは、見逃したくないし。
そん中で、例えばママ友と知り合って、「あ、この女性たちがどういう音楽を求めているのかな?」とか。
ランチをしながら、「ウチの旦那がこうなのよね」っていう話を聞いて、メモ!っていう感じで。
まあ、「家(うち)に帰ろう」とかね。
そういうのは、その後生まれるんですけど」
『家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)』(1992年)
♪見飽きたはずのあなたでも いとしい My sweet sweet home
冷蔵庫の中で 凍りかけた愛を 温め直したいのに
(スタジオで)
ハライチ澤部「会ったことないんか?ケンティーは?」
中島健人
「いや、すみません。僕はあのーLINE友達です。
(スタジオ一同「え~!!」)
すみません。自分が曲を作ったら、まりやさんに聴いていただいてます。
で、まりやさんから感想をいただいてます」
ハライチ澤部「ケンティーが作った曲を?」
中島健人「そうです、そうです」
ハライチ澤部
「それで、ケンティーが書いた曲とか聴いてもらって、何て言ってくれたの?」
中島健人
「1曲に対して、あの何スクロールしたか分からないくらい感想が来ました。
長文で。「ここのトラックはこうね」って。
「で、私はこういうイメージだったんだけど、合ってる?」みたいな」
ハライチ澤部「うわっ。和歌子さんのBARの話を消し飛ばすなよ!」(笑)
島崎和歌子「恥をかかせんじゃないよ!」
親交のあるスタイリストさんに聞く素顔の竹内まりやさん!
林修「実は今回竹内さんとプライベートで親交のある専属ヘアスタイリスト松浦美穂さんに電話取材をさせていただきました」
竹内まりや「お世話になってます。いつも美穂さんには。20年位ずっとやってくださってて」
性格に裏表がなく、上品で聡明、気が利く
林修
「その美穂さんによりますと、「性格に裏表がなく、上品でとても聡明な方。それに加えて、スタッフの誰よりも気が利いて周りが見えている。雑談でチラッと話したものを誕生日のプレゼントにいただき、この人は神様なのかな?と思いました」」
竹内まりや「大袈裟(笑)大袈裟。美穂さん大袈裟(笑)」
ダジャレが大好き
林修「こんな一面もあるとのことなんですが、「とにかくダジャレが大好き」。これは?」
竹内まりや
「ダジャレは…はい。あの好きですよ。
みんなと話してる時に、その話の流れで、こうダジャレみたいなことになることは多いですよね。
「足湯で疲れをフットバス」とか」
林修「ああ、なるほど。吹っ飛ばすで…」
竹内まりや「なんか、なるほどぐらい。失礼いたしました。本当にスベっちゃってごめんなさい」
林修「こちらが無理なお願いをして申し訳ないです、本当に」
竹内まりや「中国に帰ります。ほなチャイナラ」
林修
「…はい(笑)まあ相手の受け取りてのセンサーの問題もありますから。僕のセンサーがちょっと反応が悪くて申し訳ございません」
竹内まりや「場の雰囲気もありますから」
お笑いがとても好き「人を笑わせる仕事は最も尊いものの1つ」
林修「お笑い好き?」
竹内まりや
「お笑いはとても好きで。やっぱり人を笑わせるって、この世の仕事の中で、最も私尊いものの1つだと思っていて。
やっぱ人を泣かせるってことはドラマとか映画とかでもできる。その泣かすっていうのはあるじゃないですか。
でも、笑わすって結構難しいことで」
林修「なんでも、ラジオでは過去にシソンヌのじろうさんがお好きだと?」
竹内まりや
「大好きですね。彼は、私は志村けんさんがとても好きで。
もうずーっと好きだったんですけれども。
志村さんのそのフォロワーとしての第一人者だと思ってるんですね」
林修「あとを継ぐのはじろうさんだと?」
竹内まりや「じろうさんは、そのエッセンスがすごくあって」
林修「実は今回竹内さんが会いたいある方とも中継がつながっているので、よろしいでしょうか」
(画面にシソンヌじろうさん登場)
竹内まりや「マジで?」
シソンヌじろう「こんにちは」
竹内まりや「ヤバい。メッチャ嬉しいんですけど。あの、いつもボーダー(の服)で素敵ですよね」
シソンヌじろう「あ、ありがとうございます。そんなところまで覚えていただいて」
実はシソンヌじろうも竹内まりやの大ファン
そんな相思相愛の2人が直接話すのはこれが初めて。
竹内まりや
「私、じろうさんにお会いしたらじろうさんに聞きたかったことがあって。
スティーブジョブズのあのプレゼンネタ。
ちょっと下ネタなんですけど、スケーベ・ジョブズですか?」
シソンヌじろう
「そのネタ知ってる人ほんといないんですよ。そのネタ見てる人。僕らのファンでもあんまり見てないネタなんですよ」
竹内まりや
「マジで?あれ大好きで。本当にもったいないですよね。
あの英語がすごい完璧なのがあれ私感動して。
ただのお笑いじゃないなと思って」
シソンヌじろう「アハハハハ(笑)メチャクチャ見てくださってますね
竹内まりや
「あの、なんかコラボできたらいいですよね。音楽でね。なんかね?すごく歌も上手なので」
シソンヌじろう
「いやいやいや。そんな。ありがとうございます。
僕はもう今日死んでもいいと思ってます。
まりやさんにこんだけ言っていただけたら。
もうゴールです。僕の人生はもう今日がゴールです。本当に」
竹内まりや
「ありがとうございました。良かったです。わ~こんな風に。
この番組出て良かったし」
コラボとじろうさんを誘ったように、人との繋がりを大事にする竹内まりやさん。
10年ぶりの最新アルバム「Precious Days」でも、松浦亜弥、生田絵梨花、早見沙織など様々アーティストがコーラスで参加している。
竹内まりや「出会った人とのご縁を大切にするっていうことは、すごく大事にしてて」
林修「で、このアルバムの中の「Subject:さようなら」には松浦亜弥さんが」
竹内まりや
「そうですね。この曲は亜弥ちゃんに2011年にアルバム用に書いた曲で。
でこれをセルフカバーするにあたって、あややは今育児休業中でお家にいらっしゃるんで。
まあ、でも無理かなと思いつつ、亜弥ちゃんあのこれ一緒にコーラスしてくれると嬉しいんだけどってことをお便りしたら、「もうぜひやりたいです」っておっしゃってくださって。
ホントに忙しい中でね、これをやってくださって。
なので、やっぱり提供曲に対して、そのオリジナルの歌手の人がこう参加してくださるっていうのは、またその曲がスペシャルな意味を持ってくるので。
その方に参加していただくことによって。
なので、2倍、3倍に楽しんでいただける感じになったかなと思っています」
夫・山下達郎さんの活動が途絶えない範囲でライブを開く
林修「で、ほんと毎年沢山の曲を作られて、発表されてる割には、あまりライブを開かれないですよね?」
竹内まりや
「そうですよね。っていうのが、山下達郎がライブに出るっていうのが、毎年コンスタントにやってますでしょ?
で、私のバックバンドのバンドマスターが彼(山下達郎)なので。
彼の体が空かないと…。
そうすると彼が自分のアルバムをやって、自分のツアーをやる。
それで私のアルバムをやると、私のライブをやるところまでやると、もう彼の体がね、もたないといけないので。
彼の音楽のファンですから。彼の活動が途絶えるのは意味がないので。
だから、本当に結婚してからは、(ツアー)3回か4回しかやってないんですけど。
でもそれぐらいでも、ちょうどいいのかなと。
でも今度(来年2025年)11年ぶりに(アリーナツアー)やるんですけど。
ライブは私の場合は、もちろん歌を届けたいっていう場所ではあるんですけども。
いつも私の音楽を聴いて、待ってくださってる方々に直接お会いして、あのありがとうございますってことを…あの、お礼を伝える場所としてあるんですよね。
だから、ぜひみなさんのお顔を見て、「いつもありがとう」っていうことを伝えたいなと思ってます。
精一杯歌わなきゃと思ってますけど」
人生訓:普通であることは奇跡
自分のやりたい音楽活動が思うようにできなかった20代から、休業を経て、日々の生活と向き合うことで、等身大の名曲を生み出してきた、竹内まりや。
そんな彼女が最も大切にしている人生訓とは
竹内まりや
「普通にこう普段暮らしてて。
朝起きて、まあ普通に仕事して、夜寝てってそれが当たり前って思うんだけど。
でもよく考えたら、例えば今ね、世界では戦争が起こってる所もあるし。
その地震があった後で、仮設住宅での生活もままならない人たちもいる中で、その普通だって言うこと自体が奇跡的なことだなっていう風に思って。
もちろんそのね、一言で応援って言っても難しいこといっぱいあるけれども、せめて、歌の中ではちょっとだけ小さな明かりをその人の聴いてる人の心の中に灯せたらいいなっていう風に思っていて。
自分の幸せのために、もちろん歌も歌ってるんですけど。
その歌によって、他の人が少しでも幸せになるように。
自分の仕事を通して誰かが幸せになるようにっていう気持ちを忘れないで、仕事をしていきたいなっていうことでしょうか」
普通に過ごすその毎日がスペシャル。
日常の輝きを歌で紡ぐ天才。
竹内まりやはこれからも人々に名曲というスペシャルを贈り続ける。