【徹子の部屋】山崎育三郎さん「シャイだった幼少期。豊かな経験が作る道」(2024年10月17日放送分)

母と祖母の影響で歌が好きに

祖母が仲間を集め「いっくんのコンサート」をするのが恒例だった

徹子「あの、歌が好きになったのは、お母様とおばあさまの影響だそうですけど」

山崎育三郎
「そうですね。きっかけは母で、祖母も歌が大好きで。
まあ、家族で母の故郷が岡山県で。

で、毎年夏になると岡山県に行って、祖母が仲間たちを集めて。
で、いっくんて呼ばれてるんですけど。
いっくんの歌を聞いてもらいたいっていう。

おばあちゃん仲間が10人、20人位いる場所で、貸切って。
いっくんのコンサートをするっていうのが恒例で。
で、そこで歌う曲もだいたい決まっていて。
大きな古時計。あと氷川きよしさんの箱根八里の半次郎
もうこれを絶対おばあちゃんが「箱根八里の半次郎歌って」って言って。
それで一生懸命覚えて。
だからもうほんときっかけは、そうですね、母親と祖母ですね」

 

96歳の祖母…部屋には育三郎さんの写真や記事がいっぱい

徹子「9月までは全国ツアーしてらしたんですって?」

山崎育三郎
「そうですね。全国27か所。30公演。初めて、これだけ大きな規模で回らせていただきまして」

徹子「岡山公演にはおばあ様もいらっしゃるんですって?」

山崎育三郎「そうですね。見に来てくれましたね」

徹子「おばあ様は90…」

山崎育三郎「96歳

徹子「おばあさまのいらしたコンサートの感想は?」

山崎育三郎「そうですね。あのー「氷川きよしは歌わないの?」って毎回言われますね」

徹子「困るね(笑)」

山崎育三郎「そう。困るんですよね」

徹子「で、おばあさまの部屋にはあなたのものすごく大きなポスターが貼ってあるんですって?」

山崎育三郎
「そうですね。ポスターっていうか、そのー雑誌とか新聞を自分で切って。
それを色々はってあったり。
僕と撮った写真が飾ってあったりして。
いつも「私の恋人」って言われます、はい。

ただ、孫4人いるんで。
僕以外もいるんですけども、いっくんが一番かわいいっていう。
いつもひいきしてもらってます」

 

母の弾くピアノでみんなで歌った童謡…全国のコンクールで審査員特別賞に

徹子「お母様は今のご活躍を何ておっしゃってます?」

山崎育三郎
「母親ですか?ま、必ず見に来てくれますね。
今回のコンサートも4回?4,5回見に来てますね。
結構各地新幹線乗って、追いかけてきてくれて
追っかけですね。

でも母親もほんと歌が大すきで。
学生時代バンド組んで。ギター弾いて。もう、ロックで。ボーカルやったりとか。
あとピアノも弾くんで。
ま、母がほんと僕が子供の時から、家でピアノ弾いて。それでみんなで歌ったりとか。
ギター弾いて歌ったり、ハモったりとかって、母親がすごくやっぱり音楽はきっかけになったので。
スゴク今のこういう自分のステージとかっていうのは楽しみにしてくれていますね」

徹子「お母様とはどんな歌を歌ったの?」

山崎育三郎
「そうですね。童謡が多いですかね。
それこそあのー七つの子。♪カラスなぜなくの~これをですね。
僕が小学校3年生の時に、母と2人で。えーと、ハーモニーで。
あの童謡全国コンクールっていうの受けて。
そん時、審査員特別賞というのをいただいたことがあって。
だから、母親とよく2人で童謡を歌ってましたね。ちっちゃい時は」

徹子「その童謡を2人でハモるの?」

山崎育三郎「ハモります」

 

祖母の影響で昭和歌謡が好きに

徹子「おばあさまはなんかシャンソンがお好きだと」

山崎育三郎「そうですね。それこそ愛の讃歌とか。♪あなた~の燃える手で~とか」

徹子「じゃあ、おばあさまの影響で、昭和歌謡も好きになった?」

山崎育三郎
「そうですね。もう昭和歌謡が特に好きで。
それはもう、おばあちゃんから、教わったというか、聞いて覚えた…」

 

幼少期はシャイで静かーな子…歌う時は開放的で前向きになれた

徹子「あなた自身は歌好き?」

山崎育三郎
「そうですね。あの、もともと子供の頃はすごくシャイで。
あの、今じゃ考えられないって言われるんですけど、人前が嫌いで。
もういっつも母親の後ろに隠れてるような引っ込み思案な性格で。
まあ、4人男兄弟なんですけど、3番目で。
とにかく家でどこにいるのか…いっくん今日いる?って心配されるくらい静か-にしてる子で。
で、歌う時だけ唯一自分が開放的になれて
あの、前向きになれたっていうのが歌との出会いっていうか、きっかけですかね。」

徹子「偶然なんですけど、私の後輩にもなるんですって?」

山崎育三郎「あ、そうですね。大学が」

徹子「東京音大ね」

山崎育三郎「東京音楽大学で、はい。先輩です」

 

男四兄弟の三番目…4人全員名前に数字がついている

徹子
「育三郎さんは男四兄弟の三番目なんで、育三郎なんですけど、他の兄弟の名前にも数字はついてるんですか?」

山崎育三郎
「そうですね。祐郎(ゆういちろう)、令郎(れいじろう)、育郎(いくさぶろう)、厚郎(こうしろう)って言います。
賑やかでしたね。ほんともう…」

徹子「賑やかで、お母様大変だったでしょうね」

山崎育三郎「大変だと思います、はい。もう、ケンカばっかりして」

徹子「ねえ?いかにもすごそう(笑)ケンカもすごいし、ご飯なんて食べ物…」

山崎育三郎
「いや、すごい量です。もう、取り合いですからね。
もう、お前の方が唐揚げ1個多く食べたとか。
そんなんでケンカするような感じでしたね」

徹子「今になると、お母様が大変だったっていうのが分かるんですって?」

山崎育三郎「そうですね。もう大変だったと思います。ほんとに戦いだったって言ってました。」

徹子「お母様には感謝の気もちはお伝えになったの?」

山崎育三郎「今はもうできる限り親孝行したいなって気持ちはありますけどね。

徹子「でもあれね。兄弟が多いと大変でしょうね。男の兄弟は4人もいたら」

山崎育三郎
「そうですね。あのー子供の頃はケンカばっかしてましたけど。
今は割と仲良しと言いますか。
4人で集まって今でもごはん食べに行ったりとか。
すごく。何かあると4人で集まって。いろんな話したりしますね。」

徹子「あ、そう。今は仲良くできるのね?」

山崎育三郎「ちょっとライバル関係というか。ちゃんと仕事してるかっていうのをお互いに確かめ合ってます」

徹子「でも、お母様に一言お礼をおっしゃっていただけます?ここまで育ててくれてありがとう」

山崎育三郎
「お母さんに?あ、お母さん。お母さん!あ、お母さん…(笑)
え、そうですね。あのーお母さん、あのほんとに。
あの、お母さんとの何て言うんでしょう…一緒に歌った記憶とか音楽との出会いっていうのはお母さんがきっかけですし、お母さんが自分をその世界に導いてくれて、今の自分があると思ってますし。
えー子供の頃からたくさん兄弟…多い兄弟をサポートして、支えてくれて、今があると思っていますので、本当にありがとうございます」

徹子「よくできました」

山崎育三郎「アハハ(笑)よくできました(笑)」」

 

小さい時から野球を本気で…6年生で全国大会へ

徹子「でも四兄弟でよくスポーツしてたんですって?」

山崎育三郎
「そうですね。あのー野球をずっとちっちゃい時からみんなで。
僕もやってました。一応6年生の時には、全国大会まで行きまして。
西武球場でピッチャーやりました」

徹子「すごいじゃない?」

山崎育三郎「はい。もう、本気で野球は取り組んでたんで」

 

大好きな小椋佳さんのミュージカルオーディションを勧められ…主演に選ばれる(小6・12歳)

徹子「それから先行こうと思わなかったの?」

山崎育三郎
「で、その6年生の全国大会の後に、ちょうどその歌の教室の方から、あのミュージカルのオーディションがあるんだけど、ちょっとチャレンジしてみないかと。
それが、あのー愛燦燦を作詞作曲された小椋佳さんが企画されるミュージカルがあって。
で、小椋さんが子供たち集めてオーディションをやると。
で、それに参加したところ、もうほんとありがたく、何も野球しかやってない自分が主演で選ばれまして(ミュージカル「フラワー」1998年)。
それで、12歳でデビューが決まって。
そこから、野球からミュージカルの世界に入っていくっていうのが」

徹子「あ、そう。それじゃあ、もう野球は辞めた?」

山崎育三郎
「そうですね。もう泣く泣くっていう感じでしたけど。
だからもう自分が好きだった愛燦燦の作曲家の小椋佳さんに選んでいただいてこの世界に入ったっていうのは、すごくご縁を感じるというか。」

徹子「で、ミュージカルにお出になって、どんな感じがしました?」

山崎育三郎
「だからすごくあのーシャイな子供だったんですけども。
その舞台上に出た時に、自分じゃない何かに入り込んで、役としてお客様の前に立ったときに、あまり緊張しなくて。
すごく開放的な気持ちになれたんですね。
自分自身に合ってるというか。
これだ!って思う瞬間があって
これをやっていきたいと思ったっていうのが、ミュージカルとの出会いですかね。」

 

中3からクラシックの勉強を始め、音大の付属高校へ

徹子「で、高校で声楽やクラシックを学んだんですか?」

山崎育三郎
「そうなんですよ。それで、あのーミュージカルで、中学生の間もずっとやらせていただいてたんですけれども。
ま、変声期を迎えて。
その時にクラシックの先生との出会いがあって。
将来ミュージカルをやりたいのであれば、ちゃんと基礎のクラシックを学んだ方がいいと。

で、そっから、中学3年生からクラシックの勉強を始めて。ピアノを弾いて
で、音大の付属高校に受験して。
そっから、1回全部お仕事も辞めて、勉強する時間っていうのにしたっていう」

 

高校の9割は女子「すっごいモテた」

徹子「で、クラスには男の子が他にいなかったんですね?」

山崎育三郎
「そうなんです。音大の付属高校っていうのはやっぱり音大なんで、女の子の方が多いんですね。だから、9割ぐらいが女子なんで。
そうですね。もう最終的には、自分ともう一人だけでしたね、男の子は。
2人。クラスで」

徹子「その時は、モテました?女の子にモテた?」

山崎育三郎「すっごいモテました」

徹子「あ、そう(うなずく山崎育三郎さん)。御自分でおっしゃるぐらいだから、大丈夫ね」

山崎育三郎「(笑)」

徹子「そう。モテた?」

山崎育三郎「どうなんですかね。まあ、男の子少なかったので。そうやってね…」

徹子「だって、男の子2人しかいなかったもんね」

山崎育三郎「そう。2人しかいないんで。はい、モテました」

徹子「で、何か手紙とかもらったの?」

山崎育三郎「手紙もいただきましたね。はい。下駄箱に入ってました。育三郎さんへって。はい」

 

高校2年生でアメリカに留学「自分が行動することで環境が変わる経験」

徹子「で、高校生の時にアメリカ留学いらして。そこで性格が激変したんですって?」

山崎育三郎
「あ、そうですね。高校2年生をアメリカの高校で。
僕の兄2人が、あのー海外にずっと留学してたので。
その影響もあって。1回ミュージカルの世界からも離れて、まあ色んな勉強したいっていうのもあって、高校の時にアメリカに留学して。

それはミズーリ州っていうところの。今で言うヌートバー選手が、野球の。カージナルスっていうチームがいるのがミズーリ州なんですけど、そっから2~3時間車で離れたド田舎。ほんとに田舎町に留学しまして。

1人だけ。本当に僕だけアジア人っていうところでちょっと差別をされたりとか。いじめられたりとか。そういうのがあって。

そこで乗り越えて

自分でもうダンスパーティーで踊ったりとか。

国歌独唱。アメリカの野球の大会で。アメリカ国歌を歌わせてくださいって言って。

で、そういうだから自分で積極的に行動することですごく仲間が増えて

差別とかそういういじめられることも減っていって。

やっぱり自分で行動することで、自分の環境が変わっていくっていう経験をアメリカでできたっていうのはありますかね」

徹子「それはすごいですね。でも自分で積極的にしないとやっぱりダメだってことね」

山崎育三郎
「そうなんですよ。シャイでいても何も生まれないと言いますか。うん。
そこでの経験ですごく自分自身が…とにかくチャレンジしようと。
一歩踏み出す勇気みたいなものを学んだ時期にはなりましたね」

 

留学から帰国後、祖父母の介護…心・メンタルがすごく強くなった「あれよりしんどいことはない」

徹子「それで、留学から帰ってらしたらば、おじい様おばあ様の介護をなさることになったんですって?」

山崎育三郎
「ま、10代でそういう介護をやったことで、すごくメンタルというか、自分自身の心はすごく強くなってきましたね。

だから、それに比べると、20代で社会人になって…まあ、仕事するようになってから、ほとんどのことは乗り越えられるっていう。

あれよりしんどいことないかなっていうのは、自分のモチベーションの1つにありましたね」

徹子「もう一度ミュージカルの舞台に立ちたいっていう夢もそこで?」

山崎育三郎
「そうですね。その介護中も自分を奮い立たせるために帝国劇場行って。ミュージカル見て。
いつかあそこに立つんだっていうので、すごくモチベーションになってました」

 

19歳で『レ・ミゼラブル』のマリウス役に選ばれる(東京音大1年生)

山崎育三郎
2年半くらいその生活があったんですけど、19…大学1年生の時に、東京音大の1年生の時に、オーディション
レ・ミゼラブルっていうので、自分で書いて。写真撮って。歌を入れて応募して。
で、5次審査まで当時あって。もう全国2万人応募のオーディションだったんです。僕も応募して。で、そん時に、19歳の時に、最終審査まで通って、最後合格しまして。
それでマリウスっていうレ・ミゼラブルの中の役をいただいて。

で、帝劇に立ったのは21歳なんですけど。
そこでまたミュージカルの世界に戻ってくるっていう。」

徹子「でもまたそこにお立ちになれたのは、良かったですよね?」

山崎育三郎「そうですね。そこがスタートラインだったので。ほんとに大きなチャンス貰いましたね」

 

長年の夢が実現「日本で生まれたミュージカルを作る」

徹子「でも、あなたの働きかけで、オリジナルのミュージカルが実現したんですって?」

山崎育三郎
「そうですね。あのーまあ、そっから20代は、それこそレ・ミゼラブルとかミス・サイゴンとか。もう自分が憧れだったエリザベート、モーツァルトって本当に子供の時から見てた作品に出たいっていう目標でやってきて。

ま、それが29歳で一つ叶って

で、自分の中で、そのー初めて出たミュージカル。12歳の時の。
さっきのミュージカルが、小椋佳さん企画の日本オリジナル。
日本で生まれたミュージカルを作りたいっていうのが昔からずっとあって、自分の中に。
で、それを実現させたいっていう思いがあって。

実は来年(2025年)、公演が決まったんですけども、「昭和元禄落語心中」という、あの落語をテーマに…。
あの、もともとアニメの作品で。ドラマ化されて。その時、出演させていただいて。
で、そのドラマに出た時に、これをミュージカル化したいっていうのが6年前に自分の中で密かに思ってたことがあって。

で、それがついに実現するっていうのが来年ですね。
もう音楽も振り付けもセットも小道具も全て日本でゼロから作る作品になっていくので。
もう念願と言いますか。自分がずっと挑戦してみたかったことが、実現しますね」

タイトルとURLをコピーしました