【人生最高レストラン】脚本家・倉本聰さん「東大に通わず脚本の勉強」「ラジオ番組ADから人気脚本家に」(2024年12月14日放送)

加藤浩次
「どのくらいのペースなんですか?北海道どのぐらいいて、東京にきたりするのは…?」

倉本聰「コロナが始まってから初めてです」

加藤浩次「あっ、そう。それ以外はずーっと富良野にいらっしゃるってことですね?」

 

脚本家・劇作家・演出家 倉本聰さん
不朽の名作「北の国から」や日本アカデミー賞に輝いた「駅」など、歴史に残る名作を次々発表し続けるドラマ界の巨人。

そんな倉本さんが富良野に移り住んだ衝撃の理由とは?

現在90歳!富良野で生活して50年近く

加藤浩次「北海道も暑くなってるでしょ?今」

倉本聰「ただね。僕の所は森の中なんでね。全然涼しいです」

加藤浩次「ああ、そうですか。僕は小樽出身なんですけど。その辺で聞いたら、もう暑いよ~って」

倉本聰
「みたいですね。でね。青森でね。キタキツネが現れたんだって、最近。
(※日本では、北海道・樺太及び周辺島嶼(とうしょ)にキタキツネは生息している)
海底トンネルとおったでしょ?青函(せいかん)トンネル(本州と北海道を結ぶ全長53.85㎞の長大海底鉄道トンネル)。

あれを通ってキツネが行っちゃったらしい。
だから気を付けないとね、あのー内地(本州)の猿とイノシシ。
北海道に来ちゃう可能性がある。いないでしょ?」

 

加藤浩次
「どうですか?富良野の生活っていうのはもう長いですよね。もう何十年になりますか?」

倉本聰「50年近いですね」

加藤浩次
「50年…今倉本先生の口からね「内地の方は…」って言ったじゃないですか。
北海道って(本州を)内地って言うんですよ。
倉本先生は東京出身なのに、内地の方って言うんだなぁって思って」

倉本聰「言いますね」

加藤浩次「先生、東京いたのは何歳までですか?」

倉本聰「39歳まで」

加藤浩次「ってことは?今おいくつですか?」

倉本聰「今年の暮れで90(歳)

加藤浩次「うわー」 島崎和歌子「元気ですね」

倉本聰「元気(笑)」

 

大女優との思い出の食べ物の話

倉本聰
「僕ね、あんまり。
戦時中の子供だから、食えるもんだったら何でもいいっていう感じなんだけれど。
あえて言うなら、カラスミとかね。酒のつまみになるもんがいい」

加藤浩次「え、カラスミは先生思い出はあるんですか?」

倉本聰
「カラスミはねー。苦い思い出があるんですよ。
大原麗子っていたでしょ?
大原麗子がね。僕にカラスミを贈ってくれたんですよ。
こんな桐の箱に入った。

で、僕作品にかかっちゃうとね。
連続ものだと、連続もの終わるまで、(好物を)冷蔵庫入れて食わないことにしてるんですよ。
で、全部書き終わったら、今日は食うぞ!っていう感じで。
だから、ためて、カラスミの口を作っていくわけですよ。

それで、やっと書き終えたの。
よし、今日カラスミ食おうって言って。カミさんに言って。
それで茶の間に行ったら、カミさんがその箱を半分開けて、茫然としてんだよ。

それで、こうやって見せるの。
中にね。石けんが3つ入ってたの。

僕がね、読み違えたんだけど。カラスミってね。
アラミスって書いてあったの。
アラミスをカラスミって読み違えちゃったの。
それで、大原麗子は大病をやって。快気祝いで送ってきたカラスミだったの」

加藤浩次「実際はカラスミじゃないですよね。先生」

倉本聰
「だけど、朝からさ。カラスミの口になってるじゃない。
だからカラスミ買ってこいつったってさ。富良野にカラスミ売ってるわけないしさ」

加藤浩次「で、どう解消したんですか?その気持ちを」

倉本聰「…不機嫌なまんまでしたね」(笑)

 

倉本聰
「僕、中島みゆきにね。あのー教わった。「先生騙されたと思ってこれ食ってごらん」って。納豆牛乳茶漬け。
熱い飯の上に、納豆をのっける。で、あったかい牛乳をかける。醤油をたらす。
ウマいの!えっとね。ドリアみたいな味になる」

 

高校生で印象に残った劇作家の一文。大学に通わず脚本の勉強

脚本家に興味を持ったきっかけ

加藤浩次「で、脚本家にはそもそも先生はどこから興味持ちだしたんですか?」

倉本聰
「あのージャン・ジロドゥっていう劇作家がいるんですよ、フランスに。

(※ジャン・ジロドゥ…20世紀前半 世界演劇の王者と称されたフランスの劇作家)

で、その人の文章でね。
街を歩いていたら、とてもいい顔をした紳士に出逢った。彼は良い芝居を観た帰りにちがいない」っていう文章がある。
これがね。学生時代に頭に染み付いちゃってね。
16~17歳。高校生ぐらい(倉本聰さんは麻布高校に通っていた)」

 

東大に行かずにシナリオの勉強…何十冊も書いた間のためのノート

倉本聰
僕は東大行かなかったんですよ。
赤門っていうのは、くぐってないんですよ、あんまり
そう、あっ、入学式の時くぐりました」(笑)

加藤浩次「え、先生それだけ(笑)?」

倉本聰「卒業式も行きました」

加藤浩次「え?学校通わないのに、なんで卒業できるんですか?」

倉本聰
「…でしょ?わかんない。(笑)
だけどね。先生の顔も何にも知らないんだから」

加藤浩次「え?何をしてたんですか?」

倉本聰
「それシナリオを書くことの勉強したの。
で、書くことの勉強っていうのはどうしたかっていうと。
人がどういう会話を交わしてるんだろうって。

喫茶店行ってね。アベックのどういう会話がそこでなされるかっていうのがね、面白くて。
で、例えば、こっちがこっちを誘ってるんだなっていう。だけど、こっちは断ろうとしてる。
で、その時にね。ものすごいセリフっていうのは間っていうのが出てくるなって思って。

もうセリフの半分以上が間なんだよね。
だからその間っていうものをやたら勉強して
間のためのノートを何十冊も書きましたよ」

 

就職してラジオ番組のADに

フジテレビ開局の年に入社試験を受け合格

加藤浩次「で。え、フジテレビに入るんですか?日本放送に入るんですよね?」

倉本聰「フジテレビ入りたかったのよ。ところが、フジテレビの開局の年で」

加藤浩次「開局の年か。すげぇー」

※1957年ニッポン放送と文化放送が主体で富士テレビジョンを設立。社名を変更し、1959年フジテレビジョンが開局

倉本聰
「ニッポン放送と文化放送が金出して作ったんだよ。
だから、3社合同のマンモス(入社)試験っていうのをやったの。
それでフジテレビじゃなくて、(ラジオ局)ニッポン放送に回されちゃったの」

加藤浩次「配属が?」

 

ラジオ番組のADになり、脚本を書くように…ペンネーム「倉本聰」で売れるように

ニッポン放送で、ラジオ番組のADとしてキャリアをスタート。
あることをきっかけに脚本を書くようになっていったという。

倉本聰
「(ラジオ番組の)作家たちが、テレビの番組も持ち始めてるわけよ。
番組いくつも持たされてると、書けないのよ。
だから上役が、お前書けっていうの。自分で。
で、俺もそうしてるっていうの」

加藤浩次「は~ライターに頼まないで、ディレクター自体がもう書いてると?」

倉本聰「うん。書いてると。それをやっているうちにさ、売れちゃったんだよ、だんだん。

加藤浩次「それは、ニッポン放送の中のドラマだけですか?他の局もやってるの?」

倉本聰「全然。全部他の局。テレビ局

加藤浩次「あ、もう内職やってたってことですね?それ、ダメですよね?」

倉本聰「ダメ。もちろん、ダメ」(笑)

加藤浩次「え、それ書いてる時は、倉本聰でやってたんですか?もう」

倉本聰「「倉本聰」っていうそのペンネーム作ったの」

加藤浩次「そうですよね。本名じゃないんですよね」

倉本聰
「本名じゃない。
そしたらある日、その部長に呼ばれてね。
「お前は若いくせに古い作家しか使ってない」って言うんだよ。
で、「最近倉本というのが、なんか出てきたから、会ってこい」っていうわけ」(笑)

加藤浩次「「すいません、僕です」とは言えないですもんね?」

倉本聰
「それは言えないよ。まあ、時間潰してね。
「どうだった?」って言うから、「いや~、大したことのないヤツでした」って言って。
でもそろそろ危ないなと思ってたの。
その頃、エライことをやっちゃったのよ。事件が起きちゃったの」

 

多くの番組を掛け持ちし、疲れすぎて大ピンチ!ニッポン放送を辞める決意

他局のテレビドラマの脚本を続け、本業のラジオでも多くの番組を掛け持ち
疲れがピークに達した頃、担当していた渥美清さんと水谷(みずたに)良(よし)重(え)さんが出演するラジオドラマで、その事件は起きました。

倉本聰
「当時はあのそれで、使い終わったテープをすぐ消去しろって言うわけ。
使いまわすから。消しちゃえと。
で、(OAテープを)消したらしいのよ。
明日の朝からの「天下晴れて」の放送テープが出ていないっていう。
ええ?と思って、探したんだけどないんだよ。
それはね。夕方の7時くらい」

加藤浩次「ヤバいじゃないですか。次の日の朝ですよ」

倉本聰「うん、ヤバい」

加藤浩次「そしたら、(放送に)穴空きますよね」

倉本聰
「穴空く。それで良重と渥美清に電話したわけ。何とか救ってくれつって。
渥美清はね。売れ出したときだったの。
で、午前3時なら来れると。3時でいいから来てくださいと。
(水谷)良重のとこ電話したの。ヨーロッパに行ってていないっていうの」

加藤浩次「ああ、帰ってこれないわ」 島崎和歌子「大ピンチ」

倉本聰
「もう、ズドーンですよ。心臓にね、鉛の塊が入ったみたいな
ホントにもう死にたくなったね。
それでもう、そのまま帰っちゃったの家へ

加藤浩次「え?え?」

倉本聰「もう、ダメだと思って」(笑)

加藤浩次「もういいやつって(笑)?」

倉本聰
「で、気が付いたら(午後)10時なんだよ。
その時ね。天の助けがくるのよ。
これはね。会社から古い台本を全部持ち出して。
2人の会話でしょ?
水谷良重のどうでもいい会話ね。
例えば「へ~」とか。「それでどうしたの?」とか。
水谷良重はそのセリフだけ。
それに対して渥美清(のセリフ)を乗せる。新しくくっつけたわけです」

加藤浩次「ほうほうほうほう。過去の台本でテープ残ってるやつをこう切った貼ったしたわけですね。ほ~う」

倉本聰
「で、それで。その台本を1週間分作ったわけ。
それで、3時に渥美清が入ってくる。「アンタは偉い」って言ってくれて」

加藤浩次「えらくないでしょ。テープ消してるんだから(笑)」

倉本聰
「それで渥美清が適当にすくい上げてくれて、それを。
それで出したのが、もう(午前)6時に近かった。」

加藤浩次「は~あと45分。ギリッギリだ」

倉本聰「でも、そん時…俺天才じゃないか?と思ったね」

加藤浩次「いや、すごいことです。それは、誰も気づかなかったですか?視聴者が」

倉本聰「気づかなかった」

加藤浩次「え、そこで、もうそれをやって。なかなかもう難しいぞってなったんですか?」

倉本聰「もうダメだって思った。もう辞めようと。それで(ニッポン放送を)辞めたんですからね」

加藤浩次「そこからもう、順風満帆なんですか?」

倉本聰「割とね。あとその、うーん…NHKとケンカするまではね」

加藤浩次「それ…それは何だったんですか?」

 

昭和の世間を騒がせた NHKと大ゲンカ事件

生意気だと思われ、意地悪をされ…週刊誌に話した一言が大事に

それは、倉本さんが1974年に大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当した時の事でした」

加藤浩次「倉本さんおいくつの時でしたか?それ」

倉本聰「39(歳)。やっぱ図に乗っちゃったんだね。」

加藤浩次「調子に乗ってたんですか?」

倉本聰
「とにかく、生意気だと思われたんでしょうね。
色んなことを意地悪というかされわけ。
本読みすると、その後で、僕が帰っちゃうと、「作家が帰ったから本直しします」って言ってディレクターが今度直しを始めちゃう。
それをまあ、ちょっと週刊誌に喋っちゃったのね」

加藤浩次「取材の時に言ったの?」

倉本聰
「うん。言っちゃったの。それだけじゃないんだけどね。
週刊誌はもうNHKをくさしたくてさ。くさすことばっかり言うわけよ」

加藤浩次「まあ、今と変わらないですね」

倉本聰
「だから僕は逆にNHKを擁護しようと思って色んなことを、守る形で言ったんだけど。
それで、もうこれヤバいなと思ったから。
(週刊誌の人が)「明日の朝校正…校了です」って言うから、僕「最後の校了も見せてくれ」つって。
それで、見に行ったんだけど。逆の記事書かれちゃった

加藤浩次「なるほど。記事が全然違う風になってたんですね」

倉本聰
「それを直したんだけど。新聞広告のことは頭になかったのね。
新聞広告に「(NHK)内部から批判」って。ドーンと出ちゃったの」

加藤浩次「あ~。「倉本聰 内部からNHK批判」みたいな見出しになったんですね」

倉本聰
「それで朝、NHKの上(層部)から電話がかかってきて。
「すぐ来てくれ」っていう。
行ったら、みんな集まってんのよ。
で、「もうアンタとは仕事できない」って。十数人。吊し上げが始まっちゃったの。

そしたらね。やっぱりね。悲しくなっちゃって。涙が出てきちゃったの。
これは反論しても無理だなと思ったから。
「おっしゃる通り、僕はおごってました」っていう言い方をして。
「失礼します」ってそのまま出たよ」

 

北海道の地へ

記憶が途絶えて、気づいたら北海道の千歳空港に

倉本聰
その後はね。記憶が途絶えるんですよ。
それで、記憶が再度戻ったのが、(北海道の)千歳空港なんだよ」

加藤浩次「えー!?なんで北海道行ったんですか?」

倉本聰
「だからね。それが分かんないんだよ。
朝日ジャーナルの記者がね。「あ、あなたそれはね。人間負けると北へ行くんです」って。
敗北って言うでしょ」って。

なるほどな~。
それで親しいHBCのディレクターに電話して。
「やっちゃった」と。「こっちですぐどっかホテル探して」つって。すぐ探してくれたのね」

加藤浩次「札幌で?」

倉本聰「札幌で」

加藤浩次
「先生ちょっと話戻していいですか?
あの、NHKさんやっちゃったわけじゃないですか。
そうなったら、民放各局とかも仕事がなくなっちゃうってことですか?」

倉本聰「僕はタクシーの運転手やろうと思ったの」

加藤浩次「仕事1個もなくなってしまうんですか?」

倉本聰「1個もなくなったから」

加藤浩次「え、それは、NHKとそうなったら、他も使わないぞ?」

 

優しかったススキノの人

倉本聰
使わないぞ。来なかったもの。その間。
俺飲んべえじゃない。毎晩飲みに出ちゃうわけ。
で、優しいんだよね。ススキノの人って。北海道の人って。
だから、野党びいきっていうかね。
NHKとケンカしてきたっていうのは、新聞にも出たから、バンバン。

そうすると、すごくあったかくしてくれるの。
それでね。「ホテルなんか泊まってたら、金かかってダメだから。マンションへ入んなさい」つってね。

で、マンション借りてきたの。それがね。ススキノのすぐそばなんだけど。
ホステスとヤクザしか住んでない。
あの、みんな優しいの。

下にコインランドリーがあってね。俺、朝こう行ってやってたりすると。
ホステスの人が来てね。
「先生そんなこと男がやるもんじゃない。私がやるから」なんつって。
洗濯してくれるの。

もうこれは北海道に住むしかない」と思っちゃったんだよね」

加藤浩次「そこで思ったんだ。北海道に住もうと」

 

北海道で毎晩飲み歩き、貯金が7万円に

北海道で人の優しさに触れ、移住を決心した倉本さん。
しかし、毎晩のように飲み歩いていたため、ある問題が…

倉本聰
「カミさん東京にいて。貯金がね。「7万円しかなくなったわよ」って言ってきたの」

加藤浩次「あらららら。いくら使ったんですか?」

倉本聰
「使ったんだね~。」(笑)

 

ピンチの時にきた脚本の依頼で復活!

テレビの悪口を書いた脚本「6羽のかもめ」

倉本聰
「そしたら、ある日来たのよ、マンションに。男が。
あるプロダクションのマネージャーなのね。
「(脚本を)書いてくれ」って言うの。

「それ、なんでも書いていい?」って言ったら、「いい」って言う。
「よし。それじゃあもう、テレビの悪口思いっきり書いてやろう」と思って。
それで「6羽のかもめ」っていうのを書いたんです。
それが非常に評判が良かったの」

※6羽のかもめ…1974年~1975年 テレビ業界の内幕を痛烈に風刺したドラマ

加藤浩次「それはどこでオンエアーされたんですか?」

倉本聰
フジテレビ
で、その時に「ありがとう」つって、そのマネージャーが、「お困りでしょうから、これをお使いください」つって、札束をだしたのよ。
も~う、この札束のありがたみっていうのはね。
それで借金返して。その晩歩いてね。
とても返せるもんじゃなかったけど」

YOU「どんだけ飲んだの?」

倉本聰「1年半ぐらいかな~」

加藤浩次
「あ、じゃあもう1年半飲み歩いて。それはいくか」

 

札幌から自然が一番厳しい富良野へ…もう一度生き直そう!

加藤浩次「え、それね先生ね。なんで札幌から富良野の方に行くんですか?」

倉本聰
一番北海道でも激しく暑くて、寒い所にしようと思ったの。
自然が一番厳しい所でしょ。
もう一度人間に帰んなくちゃダメだと思ったのね。
少しあのー俺もだらけてくるから。もう一度生き直そうと思って」

加藤浩次「え、そこから、富良野に行って、「北の国から」っていうことですよね」

倉本聰「そうですよね。だからね。NHKにすごく感謝してますよ」

加藤浩次「あ~できなかったかもしれない」

倉本聰「できなかったかもしれない。本当に」

加藤浩次「ホントですね。ずっと東京にいたら、「北の国から」ってできてないですもんね」

倉本聰「ああ、もう。できないですよね」

加藤浩次「面白いね」

タイトルとURLをコピーしました