【しゃべくり007】MISIAさん「家族、幼少期、縁のある方々がスタジオに登場」(2025年5月26日放送)

【しゃべくり007】MISIA 家族が全面協力(2025年5月26日放送)

MISIAさんプロフィール
紅白歌合戦に9回出場!大トリを務めたことも。
社会貢献活動にも積極的で、長年にわたりアフリカの子どもたちに教育支援を行っている。

長崎県大村生まれ、対馬育ち

医者の家族

MISIA
長崎県の大村というところで生まれまして、で、あのー両親の仕事の関係で長崎県の離島・対馬というところに4歳~14歳ぐらいまで」

 

※対馬…沖縄の約3分の1の面積、福岡から飛行機で約35分、高速船で約2時間15分

上田晋也「そのお医者さんのご家族?」

MISIA「そうですね、みんな。みんな医者で、ミーイシャ(MISIA)」

上田晋也「え?そっから?絶対これウソだな(笑)。嘘でしょ?」

MISIA「ウソです」(笑)

上田晋也「あ、お兄さんお姉さんと一緒に写ってる写真もありますけれども」

MISIA
「はい。そうです。8つ、7つ離れた。
で、姉が「7月7日の七夕に女の子を産んでくれ」って母にリクエストして、ホントちょうどその日に出てきたの。
予定日を2週間ぐらい。「もう絶対7日生まれる!」って言って生まれたみたいです。
すごい可愛がってくれました」

 

小さい頃から歌が好きで、音楽に関わる仕事がしたかった

上田晋也「(写真の)”合唱団ではミュージカル劇を披露しました”っていうのは、小さい時の?」

MISIA「あ、対馬の…」

(その頃のVTRが映る。地元の合唱団でミュージカル仕立てで歌うMISIAさんの映像。
この頃から伸びのある高音の素晴らしい歌声。
すでに小学生時代からその才能を見せていたました)

上田晋也「確かに。嫌味なぐらいうまいですよね。見せつけるかのような」

MISIA
「なんかこの映像が、あのウチの家族の中ではなんていうかこう…ちっちゃい頃から歌は好きだって言ってたし、音楽に関わる仕事がしたいって言ってたけども。
あのー初めて1人でしっかり歌ってるのを聴いて。
「あ、歌を歌うことを応援してあげよう」って思った一番最初のきっかけだったみたいで。
すごくこれを、この映像を大事にとって」

有田哲平「あ、じゃあこの頃からもうなりたかったんですか?」

MISIA「なりたかったです、はい」

 

歌手になるためお年玉は貯金

上田晋也
「えーお母さんからの情報で、『MISIAが歌手になりたいと言ったのは小学校3,4年生の頃で、「売れないと困るからお年玉は使わない」と言って貯めていた』。
どういう意味で貯めてらしたんですか?」

MISIA
「あのー歌手で食べていくっていう想像があまりできなくて。
私の両親共に医者で、兄もその当時医大で、姉は歯学部に行っていたので。
だから、全く違う世界で生きていくっていうのが想像ができなかったので。
どうすればいいんだろう?って。
で、もうね、厳しい世界だっていうのは聞いていたので、あの今からできることはコツコツとしようかなっていう」

有田哲平「MISIAさんとか例えば紅白が決まりましたっていったら、練習するんですか?」

MISIA
「あ、練習もします。ツアー中も練習してます、はい。あの、スタジオとか借りて歌うたったり録音した音を聴いて、こうどこがヘタなのかとか分析して」

有田哲平「えー下手になったりするんですか?」

MISIA
「やっぱり音程が甘くなったりとか。
で、もうちょっとこういう事が出来るんじゃないかな?って練習はしたりしますね」

 

同級生から見た幼少期のMISIA…サバサバして賢い、ちょっと抜けてる、方向音痴、運動が苦手、歌は超目立っていた

MISIA
「(対馬は)すごく自然がとにかく豊かで。当時私がいた時代も山がすごくあって。
歌を歌っても誰にも迷惑が掛からない(笑)山でずっと大きい声で歌ってた

上田晋也「釣りによく行かれてたんですか?」

MISIA
「まあ、父が釣りに行くのにちょっとついて行って。
で、もう港でもすごいたくさん。入れ食い状態でアジが60匹ぐらい釣れちゃう」

姉からの情報
『父や同級生のまいちゃんと一緒によく釣りに行っていた。MISIAがビギナーズラックで釣ったイシダイがとても大きくて、その魚拓が残っている』

MISIA「えっと、小学5,6年生ぐらいの時に釣ったんですけど」

(同級生のまいさんが会場に来ている)

上田晋也「あのMISIAさん、幼少時代はどんな女の子でしたか?」

まいさん
「えっと、声が大きいのはもうもちろんなんですけど(笑)
でもなんかピュアですごいまっすぐな感じの…あのーサバサバしてて賢い子なんですけど。
ちょっと抜けてるところもあって(笑)。
あの方向音痴のところもあって、道に迷いやすかったりとか。
あと、運動もちょっとあんまり…。球技系とか特にあんまり、あのー」

上田晋也「あ、運動はそんなお上手じゃなかった?」

まいさん「はい。方向と運動は音痴ですね」(笑)

上田晋也「へー。やっぱ歌は相当上手かったですか?」

まいさん「あ、歌はもうホントに目立って…超目立ってました

徳井義実「学校のなんか合唱みたいなんとかもあったんですか?」

まいさん「はい。そこで歌うと、もう合唱にならないぐらい、あのー」(笑)

上田晋也「「MISIAさんのクラスだけ独唱でいいよ~」みたいな?」(笑)

 

中学3年生からデビューまで福岡に

オーディションを受けても、落とされまくる…父が見つけた電信柱に貼られたビラが今につながる

MISIA
姉が福岡の大学に通っていたので。
あのー何て言うんですかね、保護者として姉を頼って、福岡でしばらく二人暮らしをして。
それこそもう、ご飯を作るのも当番制でやったりとかしながら暮らしてました。
で、デビュー目指して、オーディション受けて。で、もう落とされまくって

上田晋也「それどういう理由で落とされるとかっていうのは伝えられるんですか?」

有田哲平「上手いは、絶対上手いわけじゃないですか」

MISIA
「いえいえ。まあ、書類だけで落ちることもありますし。
あとはなぜかそのー20歳までにデビューしたいと思っていたので。
「その20歳までにデビューできるっていう確約はできません」っていう形で、あのー「じゃあ、今回はなしにしましょう」ってお話だったりして。
で、あのーすごいもう何にもやりたくないって思ってた時期に、あのー父が駅でオーディションのビラが電信柱に貼ってあって
それをビリッってはがして。こう「あったぞ!」って言われて」

有田哲平「ちょっと怪しいですね。電信柱にそんな…」

原田泰造「「お父さん、そういうのじゃないんだよ」ってそういうのないの?」

MISIA
「最初は言ったんですけど、母が「でも、お父さんがね、丁寧にこうやって(ポスターを折りたたんで)…」。
涙が出るでしょ?で、なんか胸が熱くなっちゃって。
受けに行ったら、そこで(現在の)これに繋がってくる」

有田哲平「電信柱に貼ってる?」(笑)

堀内健「電信柱に貼る会社なんて、そんなんロクな会社じゃないよ、それ」(笑)

有田哲平「電信柱から紅白のトリいったんですか?」

MISIA「はい。駅の電信柱」

有田哲平「すごいな、それ!」

上田晋也「お父さんがそれを破ってくれたおかげで」

MISIA「ごめんなさい。電信柱じゃなくて、壁かも…」

上田晋也「ウソなんですか!?(笑)でもなんかね、面白いな、ストーリーがね」

有田哲平「それがなければちょっと変わってましたもんね。お父さんがそれ取ってこなかったらね」

MISIA「そうですね。違う形で歌…。まあでも、音楽はやってたと思うんです」

 

オリンピックの開会式で歌う大役

上田晋也
「色んな大役をね、今まで務めてらっしゃいますけど。
オリンピックの開会式。全世界が見てるわけじゃないですか。
あんま考えないようにするんですか?全世界が私を見てるとかは」

MISIA
「いや、あの時はやはり緊張で。あのイヤモニって…イヤモニつけて歌うんですけど。あそこに、演奏が聞こえてくるはずなんですけど、心臓の音が大きすぎて。
バクバクバクバク。あ~もう一生懸命聞かないと、演奏が聞こえないって思って。どうしよう~って思ってもう。
緊張…あれはすごい緊張でした。
昔は、緊張ってこと自体がよくわかってなくて、緊張したことがないと思ってたんですよ。
で、病院行った時に、喉の先生にこう診てもらう時に、「ライブで緊張したりしないんですか?」って言われたんですけど、「あ、したことないですけど。まあ、ステージに上がった時に、なんか胸がどきどきしたり、ちょっと頭が真っ白になったりすることはあります」

上田晋也「バリバリ緊張してるじゃない。自分でわかる範囲でしょ」(笑)

 

MISIAさんと縁のある方々が登場

1人目 対馬の小学校時代のクラスメート吉田恵子さん(あだ名は「けいちゃん」)

ピュアで頼れる存在だった…小さい頃から、夢、希望、平和を大切にしていた

幼なじみと30年ぶりの再会

当時のMISIAさんは…?

恵子さん
詩を書く授業があって、その時に対馬ってイカが有名で。
イカ回転乾燥機っていうのがあって、私がそれを見たら、ただイカを回して乾かしてるマシーンなんですけど。
MISIAから見たら、イカのドレスがぐるぐる回って、舞踏会で踊っているような詩を書かれてて。感受性が豊かだなと思った素敵な思い出があります」

そんな吉田恵子さんはMISIAさんとも同級生だった実家のお寺を継いだ住職・大山泰寛さんと結婚(2014年)。

上田晋也「印象深く覚えてらっしゃることとかおありですか?」

吉田恵子さん
「私、小学校の時悩みがあって。まゆ毛がすごく薄くて。
それをMISIAに相談した時に、「眉毛はね、薄い方が大人になって描きやすいからいいんだよ」って。「大人になったら描けるよ」って言ってくれて。
それで今も。眉毛描きながら、いつもMISIAのこと思い出してます」

堀内健「それで悩み解決したんだ?」

吉田恵子さん「はい」

上田晋也「MISIAさんに何かメッセージございましたら」

吉田恵子さん
「いや。今日はあのー…もう会えてすっごく感激して嬉しいです。
もう私にとってのMISIAは本当に子どもの頃から、なにかな…自然体で、前向きで、ピュアで、お姉ちゃんみたいな存在で。本当に頼れる存在でした。

私も辛い時とか、落ち込んだ時とかに、同級生のMISIAもすごい世界で頑張っているから、私も頑張れるっていう感じで、いつも勇気をもらっていました。

MISIAはもう小学校の頃からも中学校も夢とか希望とか平和を大切にするっていう思いをずーっと持ち続けてて。
それを子供の頃から大人になってもずーっと変わってないってことが、本当にすごいなって思ってて。
言葉にならないけど、まあずっとその思いを持ち続けて、歌い続けてくれて、本当にありがとう」(涙ぐむ吉田さん)

MISIA「いや~ありがとうございます。嬉しいです、そんなホントに」

大山泰寛さん
「もう対馬に関わる人たち全てのみんなが、もうMISIAのことが大好きで、もう対馬の誇りだと思ってます。
で、みんなの願いとして、いつか、いつの日か対馬の大地で、キラキラ光る海をバックに山で、MISIAの歌声を響かせてもらいたいなと。
切なるみんなの願いです。よろしくおねがいします!」

MISIA「嬉しい。私は両親の仕事の関係で対馬に行ってたので。あの、親族がいるわけじゃないから(涙声になるMISIAさん)。
そういう意味ではそのー血族的なつながりはね、どうしてもやっぱり引っ越してしまうとないんですけど。
子ども…4歳から14歳っていう一番多感な時期で、そうやって友達からの刺激をたくさんもらった、やっぱ思い出の場所で。
私を語るには、対馬はもう避けて通れないというか。もう絶対語る場所なんですよね。(吉田恵子さんの目から涙がこぼれる)
だから、その対馬の人みんながそういう風に思っててくれてるっていうのは、なんかやっぱり自分の中にやっぱ遠慮があったっていうか。(涙がこぼれる吉田さん)
言ったらいかんかなって言ったら変なんですけど。(涙声になるMISIAさん)
そういう風にやっぱり第2の故郷と思ってるってことは、言ったらいかんかなってちょっと思ってたとことかもあったので。(涙が溢れそうになるMISIAさん)すごい嬉しいです」(スタジオ拍手)

上田晋也「遠くからわざわざね、ありがとうございました」

 

 

2人目 ケニア在住 永松真紀さん

朝の支度の早さにびっくり…ドレッドも毎日自分で編んでいる

日本で初めてマサイの男性と結婚。普段はケニア在住のガイドさん。
今から10年前、MISIAさんがアフリカ支援でケニアの学校を訪れた時に現地を案内したり、身の回りのお世話をした人物。

永松さん
「MISIAさんのお部屋に朝迎えに行くっていうところから私の役割が始まるんですけど。
もう朝の支度がメチャメチャ早くてびっくりしたんですよ。
あの髪の毛。ドレッドに編んでるじゃないですか。
あれ、あの毎日毎日編まれるんですけど。自分で編んでるっていうのを、その時見てびっくりしました。
余りにも早いから。手際が良くて、パパパパパッってやっちゃうので。
5分とか。まあ、10分はかかってないと思いますよ。
ここでも出来るんだと思って。アフリカ仕様に出来てる人だと思いました。

学校訪問したのが10年ぶりぐらいだったと思うんですよ。
すっごいちっちゃい子供だったのが、もう大人になってたりとか。
そういう子どもたちとの再会をしたりとかするんですけども。
本当に心から再会を喜んでらっしゃったし。
そこで本当に子どもの悩みを直接聞いてあげたりとか、真心を持ってあのー支援されてるんだなっていうのはすごく感じましたね」

上田晋也「こうやってお会いになるのは久しぶりなんですか?」

永松さん「はい。たぶん7~8年ぶりだと思います」

上田晋也「これ(髪の毛)毎日やってらっしゃるんですか?」

MISIA「今日はあのーやってもらいましたけど。普段は自分で編んでます」

 

3人目 福岡の高校でMISIAさんと同じブラスバンド部の後輩だったのが繁永さん&ブラスバンド部顧問宮原先生

歌声に惚れ込み、ブラスバンドなのにMISIAさんがメインで歌うスタイルに

繫永さん
「MISIAさんがすごい歌が上手で。ブラスバンドなんですけど、歌を取り入れて演奏することがありました」

ブラスバンド部の顧問だった宮原清先生がMISIAさんの歌声にほれ込み、当時では珍しい、ブラスバンドなのにMISIAさんがメインで歌うスタイルになったという。

繫永さん
「パートごとにMISIAが見てくれて、歌を歌うんですけれども。
私音痴でしたんで、呼び止められることがありました。びっくりしました」

 

ブラスバンド部の顧問だった宮原先生もスタジオに登場。

上田晋也「やっぱもう全然レベル違うなって感じなんですか?」

宮原先生
「もう、もう。プロしか歌えないようなどんな曲持ってきても、全部すぐ歌えてしまうので。これスゲェなと思って」

有田哲平「だったら楽器じゃなくて歌声でいいだろうって」

宮原先生
全ての演奏会で全部歌ってもらって
あの最後北海道でね。全国大会で歌った時の曲「Memory」っていう曲なんですけれども。
思い出したら、本当に涙が今でも止まらない。忘れられない思い出になりました」

MISIA
「で、その時の音源をあのウチの両親が、プロデューサーとかディレクターに聴かせて
あ、オーケストレーションがすごく合うかもしれないねって言って、デビューアルバムなのに楽曲「星の降る丘」ってフルオーケストラでレコーディングさせていただいて。
そこから、たぶん王道バラードが合うっていうことで、たぶん「Everything」にもつながった」

有田哲平「先生!生みの親じゃないですか」

MISIA「思ってます、はい」

 

4人目 幼少期世話をしてくれた方のお孫さん太田朝啓さん

学校から帰ると、歌ったり踊ったりしていた…忙しい中、病床のおばあちゃんに会いに

医師として働く両親の代わりに幼少期のMISIAさんをお手伝いさんとしてお世話してくれていたのがつるおばあちゃん。そのつるおばあちゃんのお孫さん

太田さん
「(MISIAが)学校から帰ってきたら、やっぱり歌ったり踊ったり
それを一緒に祖母としてたみたいです。もう孫みたいな感じですね、一緒に」

つるおばあちゃんの体調が悪いと聞き、忙しい仕事の合間を縫って会いに駆けつけたという。

太田さん
「写真撮ったり、お話したり、CD置いたり、サインしたりして帰った。
それを大事に持ってました、ずっと。ありがとう」

しかし、再会から10年後、つるおばあちゃんは帰らぬ人に。

太田さん
「絶対に見守っていると思いますよ。応援してると思います。
ばあちゃんの思いは家族全員受け継いで、ずっと応援してますので、健康に気を付けて頑張って下さい」

MISIA「ありがとうございます」

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