林修
「本当にこうテレビで話していらっしゃるところをあまり見たことがないので、本当に今回出ていただいてありがとうございます」
米津玄師「いえいえ。こちらこそ光栄です。ありがとうございます」
林
「あのー僕の率直な印象を申し上げると、もう音楽も素晴らしいし、あと絵も本当に素晴らしくて。
もう空間を視覚と聴覚で両方支配できるすごい方だなっていう本当に率直な印象です」
米津
「恐縮です。本当に好きなことだけやってきたらこうなってしまったっていう。
だからわりかし、それ以外の所はほんと何もできない人間として生きてきてしまったなという。
なんか負い目の方が大きいかもしんないですね」
2018年 ドラマ「アンナチュラル」の主題歌 「Lemon」が大ヒット。
ミュージックビデオはYouTubeでの再生回数が8億7000万回を超え。
日本人アーティストの史上最高記録を打ち立てた。
2019年 日曜劇場「ノーサイドゲーム」の主題歌 「馬と鹿」。
オリコンダウンロード数1位を獲得。
さらに、他のアーティストに提供した楽曲も次々と大ヒット。
・DAOKO×米津玄師 「打上花火」
・菅田将暉 「まちがいさがし」
・嵐 「カイト」
・Foorin 「パプリカ」
これら全ての曲を米津玄師さんが作詞作曲。
米津玄師さんが作詞作曲した楽曲は誰もが知っているものばかりです。
プライベートの米津玄師さんは?
大ヒット曲をたくさん生み出している米津玄師さんですが、テレビ番組にほとんど出ないこともあり、プライベートは謎に包まれています。
お酒を飲むのが好き 親しいのはKing Gnu
林
「本当に印象がミステリアスでどういう交友関係があるのかも全く浮かんでこないんですけれども。
この芸能界での交流っていうのはあるんですか?」
米津
「結構お酒飲むのが好きなんで。
やっぱ夜中とかわりかしふらっとBARとか。
そういう友達たちが集まってる場所とかにいったりするんですけども。
King Gnuの(常田)大希(だいき)とか(井口)理(さとる)とかとは「最近どうしてる?」というノリで会ったりはしますけどね。」
ご飯はUberEats ココイチが世界一うまい
林
「たぶん、おしゃれなBARとかに行かれてるんでしょうけど、普通に居酒屋とかも行かれるんですか?」
米津
「いや、でもだいたい飯食う時は、Uber Eatsなんですけど。
中華とカレーと寿司がすごい好きで。
あの、もうその3つをローテーションしながら、生活してますね。」
林「カレーは欧風系ですか?エスニック系ですか?」
米津
「あ、でも普通のカレーですね。普通っていうか…ココイチとか。
ココイチが世界で一番うまいかなと思ってる」
林
「これちょっと世の中革命が起きますね。米津さんの一言で。
大変なことになりますよ、ココイチが」
米津「めちゃくちゃ美味しくないですか?ココイチって」
林「ちなみに、トッピングはどういう系統ですか?」
米津
「ソーセージとか。基本的に子ども舌なんですよ。
ほんとなんか、ソーセージとかハンバーグとか寿司とか。
そうなんか分かりやすい食い物が一番好きなんですよ」
林
「いやでも、ココイチ大変なことになりそう…」
曲作りでは家に引きこもる
林
「あの、米津さんも交流のあるKing Gnuの常田さんが、もう曲作りに入ると、何か月も部屋に引きこもって出てこなくなるとおっしゃってたんですけども、米津さんはいかがなんですか?」
米津
「わりかし、自分も似たタイプかもしれないですね。
ずーっと家で、窓閉め切って、あのカーテン閉め切って。
ほんと不健康の極みみたいな。」
林「外には出ない?」
米津「出ないですね~」
林「で、Uber Eatsでココイチですか?」(笑)
10時間は寝たい
林「時には行き詰る時もありますよね?その時はどうされるんですか?」
米津
「寝ますね。普通に寝ます。
寝て昨日までは気づかなかったけど、寝て起きてリセットしたら、全然感じ方とか違ったりするんで。
やっぱ、まあそれも1つ大事だなとは思いますけどね。」
林
「え?もともと長く寝られる方ですか?それともショートスリーパーですか?」
米津
「めちゃくちゃ長いですね。
もう10時間は寝ないと気が済まなくて。
そんだけ寝てるから、こんだけデカくなったのかなっていう(188㎝)」
林
「(寝すぎて)ちょっと失敗したなとかって思う事も何かおありなんですか?」
米津
「ずっと(曲)作って、1回忘れようと思って、寝て起きたらなんかパソコン再起動されてて。
保存するの忘れてて。
(曲が)なくなったことはあります。」
林
「そういう時にこれが「夢ならばどれほどよかったでしょう」とかって思われるんですか?」
米津「(笑)ずっと思い続けてますけどね」
林「そうですか。すみません」
スタジオで…
ハライチ澤部「良いやりとりでしたね」
林「初めてじゃない?」
最近通い始めたボイトレ
林「ボイトレにも通われたんですか?」
米津
「2~3年前くらいに始めて。
30を超えたあたりから、やっぱ誰かに何か習うってことをあんましたことなかったっていうのに、今一度そこと向き合ってみたいなっていう気持ちがどんどん湧いてきて。
やっぱ1からじゃないけど、ボイトレの先生もそうですけど、「歌とか何も知らない子供に教えるように、一から教えてくれませんか?」っていうところから始めましたね」
林「先生もやりづらかったでしょうね」
米津「それはどうなんでしょうね。分かんないですけど(笑)」
幼少期
次々と大きな成功をおさめ、輝かしいアーティスト人生を送っている米津玄師さん。
幼少期はどのような子供時代だったのでしょうか?
引っ込み思案・あまり喋らない・周りが何を言ってるかよく分からない
林「幼少期はどんなお子さんだったんですか?」
米津
「すごい引っ込み思案な子供でしたよね。やっぱり。
割と内にこもって、あんまり人とも喋らない。
で、結構周りの人間が何を言ってるのかあんまりよく分かんないってところがあって。
こう投げかけられてもそれに対してどう返したらいいか分からないし。
何が正解なのか分かんないっていう感覚がすごくあって。
なのでそれをこう埋めるために絵描いたりとか、音楽があったような気はしますね。」
音楽と漫画が心の穴を埋めた
幼少期は周りとなじめず、生きづらさを感じていた米津さん。
そんな彼の心の穴を埋めていたのは、音楽と漫画だったといいます。
米津
「音楽をやりたいと思ったのが、中学生くらいの頃で。それまでは漫画家になりたくって。」
林
「だってさっきも例えにパッとジャンプが出ましたから。ジャンプ派だったんですか?」
米津「ジャンプ大好きでしたね。」
林「特に何ですか?作品は」
米津
「でも一番最初が『NARUTO』の世代で。やっぱこうNARUTOを読んで。
で、単行本とかもほんと繰り返し読んでたのは覚えてますね。」
林
「でも絵もとってもお上手で、漫画家になられてもうまくいってたのかなと思うんですけどね。」
米津「いやいや、ほんと漫画家って大変じゃないですか」
林「いやもうどっちも大変ですけど」
米津
「いやーでもそれこそほんとNARUTOのマンガの隙間のページに作者の岸本さんのエッセイみたいのが挟まるんですけど。
そこでこう漫画家の生態みたいな。
どういう風に生活してるかって話を子供の時に読んだときに、これは大変だなっていう。
だから本当にそれこそ寝られないし、でもう押し入れの中で仮眠とって、そのまままた絵描いてみたいな」
林「睡眠時間10時間必要ですもんね」
米津「そうですね。それは到底自分には務まらないっていう気持ちで」
林
「まあそれは実際に睡眠不足で結構早めに亡くなっている漫画家の方いらっしゃいますもんね」
米津「そうですね」
林「でも、ゲゲゲの鬼太郎の水木(しげる)さんは93(歳)で」
米津
「そうなんですよね。でも、あの人はすごい寝てた。そう。
だからやっぱ寝るのって大事なんだなと思って。」
※(参考)「NARUTO-ナルトー」 作者 岸本斉史コラム
『締め切り時間に追われていたので寝ないで描きます。
そのページが上がるとアシスタントはぶっ倒れるように寝てしまいました。
しかし他のページがまだ残っています。
アシスタントは少し仮眠をとるだけです。
ボクは“辛い思いをさせてごめんな”と』
幼少期から描き続けた絵の才能も高い評価を受け、CDジャケットのイラストを全て自ら作成している。
さらに全編自筆のイラストを用いて、みずから編集したミュージックビデオも作成している(2014年楽曲「アイネクライネ」)。
中学から音楽活動開始 → 表舞台に出るまで
漫画家を諦め、本格的に音楽をやり始めたのは中学生の頃。
スピッツやBUMP OF CHICKENに憧れ、友人を誘ってバンドを組んだものの、そこで米津玄師は大きな壁にぶつかることになる。
中学時代:バンドを組むが上手くいかず…人と一緒にやるのが苦手
林
「まあ、中学からバンドをなさって、それはだいたいいつまで続けられたんですか?」
米津
「バンドはでも18歳位までは緩やかにやってはいたんですけど。
でもだんだんやっぱり向いてないなというのが自分で分かってきたというか」
林「音楽的な才能がそれだけおありなのに、どうして向いてないんですか?」
米津
「やっぱあの、人と一緒に何かやるっていうのが、根本的にすごい苦手なんだと思うんですよね」
林「特にバンドの人間関係とか難しそうですもんね」
米津
「あー結構何か諦めちゃうことが多くって。
こう、自分がこういう風にしたいっていうのが相手に伝わらなかったりとか。
で、まあ自分の言葉が足りないって部分もあるんで。
やっぱ伝わらなかったときに、「あ、じゃあいいです」っていう。
結局、自分でやるのでっていう方に向かっちゃう人間なんですよね。
なので、まあ当時から打ち込みとか。パソコンでこう音出してっていう。
そういうことをやってた人間なんで。
やろうと思えば全部1人で出来ちゃったんですよね。
なので、やっていくうちに、気が付いたらまあボーカロイドとかそういうものに出会って。
1人でやるのがまあ向いてたんだろうなっていう」
ボーカロイドの世界へ トップクリエイターとして活動
バンドメンバーと馴染めなかった米津玄師さん。
そんな彼にとって希望の光となったのが、歌詞とメロディーを入力すると合成された音声が歌ってくれるボーカロイドの世界。
これなら1人でも音楽作品を生み出すことができました。
そして米津玄師さんは動画投稿ができるサイトニコニコ動画で“ハチ”という名義で活動を始めます。
楽曲から映像まで1人で作った作品をサイトに投稿すると…
次々とミリオン再生を連発。
ついにはボカロ界のトップクリエイターにまで登りつめることに。
林「そのボカロ時代を今振り返ると、いまどう思われてます?」
米津
「まあ、自分の半分故郷みたいなもんだなと思う。
やっぱバンドが向いてないっていう風に、こうゆっくりなんか自覚していくそのさなかに、ニコニコ動画の中でボカロの楽曲を投稿するっていうこうコミュニティーみたいのが出来上がってて。
で、あ、ここなら自分でも参入することができるかもしれないっていう。
なのでそこで出会えたのは本当に運が良かったし、それがちょっとでもズレてたら、全然違う人生を送ってたんだろうなとは思いますけどね。」
本名で表舞台へ
自分の顔も声も本名も出さず、裏方のように音楽を作り続けた米津だったのだが。
2012年から本名の米津玄師名義で活動を開始。
突如表舞台に立つことを決意する。
そこにはいったいどんな心境の変化があったのか
米津
「ボーカロイドの音楽作るのもすごく楽しかったんですけど。
そもそもやっぱ、自分で顔を出して、で自分の名前で歌う人間に憧れて音楽を作り始めたってところがあったので。
そもそもやっぱバンドのボーカリストとか、そういう人たちに対する憧れっていうものがあって。
そこを無視したまま音楽は作り続けられないなっていう気持ちが、どんどんどんどん募っていって。
今でこそほんとボカロPになりたいからボカロをやるっていう若い子たちがいっぱいいますけど。
当時はもう本当に悪い言い方になるかもしんないですけど、自分みたいにちょっと他の所に疲れてやってきた人たちが多かったんでっていう。
本当はこういうことがやりたかった、ああいうことがやりたかった。
でも出来なかったから、ボカロに流れ着くっていう所があったりして。
まあそれが全てではないですけれど。
そういうこう受け皿になってくれる懐の広さがあったんですよね。ボーカロイドって。
でもなんか、この故郷(ボカロ)の中だけでずっと生きていくのも、自分の感覚としてはあんまり心地いいことじゃないなっていう感じがすごくしたので」
バンドの人間関係に悩み、逃げるように飛び込んだボカロの世界。
全て自分のやりたいようにやれる自己完結した世界に留まるか。
それとも、憧れ続けた夢に再びチャレンジするか。
こうして、表舞台にでることを決断。
その結果…次々と大ヒット曲を生み出し、トップアーティストとしてゆるぎない地位を確立していく。