【1周回って知らない話】ゲスト大泉洋さん 「人生のどん底、マルチな活躍、娘との関係」(2024年5月放送)

北海道 俳優(男性)

1周回って知らない話に俳優の大泉洋さんが出演されました。

大泉洋さんと言えば、俳優でありながら、抜群のトーク力。
大泉さんが出れば、何か面白い話が聞ける。番組は絶対楽しい!

と思わせてくれる方です。

今回の出演を拝見し、さらに大泉洋さんの人間力、人間的魅力を感じました。

今回もとても見ごたえがあり、楽しかったです。

そして、大泉洋さんが愛にあふれた素敵な方だと実感した番組になりました。

 

大泉洋さんプロフィール

1973年(昭和48年)4月3日生まれ(出演時年齢51歳)
北海道江別市出身 小学5年生の時に札幌市南区に引っ越す
178㎝ B型 大の動物嫌い
北海学園大学経済学部経済学科卒業
2011年第一子(女児)誕生

大学時代に高等学校地理歴史の教育職員免許状を取得。
大学卒業後は両親と同じ教師になる予定だった。
当時のテレビ出演はあくまでアルバイトであり「テレビは思い出作り」と公言していた。
(母校の札幌藻岩高校での教育実習における受け持ちクラスの生徒として、杉村太蔵が在籍していた)

日本アカデミー賞優秀主演男優賞を4度受賞する俳優
俳優とは思えないバラエティスキルを持つ
3年連続NHK紅白歌合戦の司会を務める
2023年歌手として紅白出場

父・母共に元教師
兄 大泉潤さん(第10代函館市長 早稲田大学法学部卒業)
妻 中島久美子さん テレビプロデューサー 元フジテレビジョン社員

(以上Wikipediaより)

オープニングトーク

東野幸治「今日は大泉さん…大泉洋という人間を丸裸にしますけど」

大泉「私を掘り下げるのはやめていただきたい」

東野「浮所(飛貴)くんどういうイメージ?」 ※浮所=グループ「美少年」 浮所飛貴さん

浮所(美少年)「どういうイメージ?」

東野「そんな変な質問違うよ?スゴク初歩的な質問です。
浮所くんいきなり聞くよ。大泉さんの作品で一番好きな作品は?」

浮所「出すぎてて…出すぎてて…」

(爆笑)

大泉「浮所くんね、僕のことを一つも知らないと思う」

浮所「知ってます!」

大泉「いや、知らない。あんな薄っぺらな答えない」

東野「柴っちゃん(=アンタッチャブル柴田)どうなの?」

柴田「いや、あこがれの存在ですよ。ホントに」

大泉「嘘!嘘にしか聞こえないわ、ホント(笑)」

柴田「まあ、嘘なんですけども」

大泉「うそつけ、あほ!」

(爆笑)

 

一般の人が大泉洋さんに抱くイメージについてインタビューVTRをみた後で…

大泉「ほんと数秒でしたね。いいこと言ってくれてた人達。
後半からはなんかもう…罵詈雑言が。いじられ待ちだとか。」

東野「いや、そこがやっぱすごいと思うねん」

大泉「何がすごい…別にいじられ待ちはしてないんですよ。ただ、いじってくるから最後はもう斬るしかない。いや、だから街で妻に言われるわけ。「もうやめてくれ」と。「娘もいるから、悪い言葉を言うな」と。「あなたがバカだとかなんだとかツッコむ必要がないだろ」っていうんだけど、だけどお前向こうが斬ってくるんだと。

いやだからもうほんと娘に言ってる。
「だからねって。パパがツッコむっていう安心感でみんながかかってきてるんだ」と。
娘にもそれは分かってもらいたい。「君もね、友達とトークしてたらそうしなさい」」

東野「ハハハ。友達のとのおしゃべりをトークって言ったらお終いですよ」

 

視聴者の疑問
「俳優、歌手、MCと活躍中の大泉さんですが、なんでそんなに色々やってるの?」

大泉「ムチャぶりとダマされてやってますね」

東野「つまり、全部俺が歌を歌いたい、俺が司会やりたいんだとか、俺東京行きたいんだって全部自分では言ってないってことなんでしょ?」

大泉「司会だ、歌だとかっていうのは、ムチャぶりとダマされてるうちにって感じです」

 

生い立ち

幼少期

1973年北海道江別市生まれ 大泉家の次男。
両親は共に学校の先生だった。

勉強しなさいとはあまり言われず、兄弟共に自由奔放に育てられた。

中でも大泉少年がはまったのが、「テレビ」。

大泉
「やっぱテレビが娯楽の王様のまだ時代でしたから。

みんながプラモデルを作ったりだとか、ファミコンをやったりとか、そういう時間にも僕はもうテレビばっかり見てましたね。バラエティー番組から普通の大人が見るドラマから。

親からはね。勉強しなさいとはそんなに言われなかったけど、「テレビばっかり見るんじゃない」は言われましたね」

歌番組が放送された次の日には近所迷惑関係なしに窓を開けて大声で歌っていた。
(おじいちゃんがいつも怒っていた。「うるせぇ!歌うな!みそくさる(=歌声が聞くに堪えないの意味)」)

学校では…
テレビで見た大人のモノマネを披露(田中角栄など)。休み時間の度にクラスメイトを大爆笑させたり、落語のテープを丸暗記するなど笑いに貪欲な小学生だった。

大泉
「もともと人を笑わせる以外に興味がなかったからね。子供の時からね。クラスの中ではまあやっぱ面白かったんじゃないんですかね。

昔はなんかもう小中高と必ず宿泊学習ってあるじゃない。だから、宿泊があると必ずクラスの出し物みたいなのありませんでした?なんか。ああいうのって、帰る前のホームルームとかでね、うちのクラスは何をやりますか?みたいなのやるわけよね、小中のころとか。だけど、みんな帰りたいもんだから、面倒くさがってみんなが言うのが「大泉ワンマンショー」みたいなね。「あ~、いいねえ~(パチパチ手をたたく)」みたいな。

ワンマンショーなんか恥ずかしいから嫌だということで、じゃあ俺がコントを書くから友達を巻き込んでやろうみたいな。それがえらくウケたんですけど。

こう自分で「俺はこれがやりたい」って言って勇気出してやるほどの、なんかこう勇気はないというかね」

 

中学・高校時代

中学、高校時代は常にクラスの人気者だったという大泉。

しかし、将来の夢はこれといってなく、とりあえず大学への進学を希望。

この時人生で初めて壁にぶつかることになる。

 

2年の浪人の末、大学受験失敗。

7歳上の優秀な兄と同じ東京の名門大学にどうしても行きたかった大泉さんは「東京」を目標に浪人を選択。

丸2年間猛勉強した結果、東京の志望校は全落ち。
唯一受かった地元北海道の大学へ進学することに。

(過去のイメージ映像で)

大泉
「2年勉強しても行きたい大学に行けないなんて。俺って何やってもダメなんじゃないかなあ」

人生で初めて挫折を経験し、すべてのことに対して、やる気が起きなかったといいます。

 

大泉
「まあすごかったですね。自分で今思い返しても、よくあんなに毎日泣いていられたなってくらい。もうほんと分かりやすく、部屋から出ないで部屋のベッドの隅で膝抱えて泣いてましたね(ククク笑)。

そんでもうおふくろがガチャって開けて「もうお願いだから元気出してくれ」ってもう泣きながら懇願してたみたいなね。

なんかもう別に風邪ひいて死んでもいいわみたいな。
傘もささないでびしゃびしゃな雨の中、なんか外出たりとかって覚えてますね。

生きてたってしょうがないしみたいな感じでしたよね」

 

大学時代 演劇との出会い

大学に入学して、なにもやる気が起きないまま3か月たったある日。大泉さんの中でちょっとした変化が。

大泉
「このまんま俺4年間ずーっとね。「行きたい大学じゃなかった」ってずーっとなんか落ち込んで、4年間無駄に過ごすのはなんか嫌だなというのはなんか思うようになったんですよ。

はじめて他人から言われずに、何か自分でやってみようかなと。

それはもうどうしようもないどん底まで落ちてたからやれたんでしょうね。」

はじめて自分で選んだ道。それが演劇研究会。

大泉
「演劇研究会という1つのボケだったんですよね。友達に「俺演劇研究会入ったんだよね」って言って「えんげきぃ!?」みたいな。
まだ当時の演劇は「あめんぼあかいなあいうえお」みたいな、なんかちょっと異質な人たちっていうイメージがあったから。

入ってみたら、当時そこに安田顕さんが僕の先輩、2個上の先輩・・・彼は現役合格でしたから、2個上の先輩で彼いましたから。」

そう、そこで出会う先輩や同期こそが後に北海道を代表する演劇ユニットTEAM  NACSのメンバー(安田顕、戸次重幸、森崎博之、音尾琢真)。彼らと出会い演劇を始めた大泉さんは…

舞台上で面白キャラになりきり、笑い所満載のコメディを熱演。

はじめて出た大学の定期公演では150人の観客を前にウケまくった。

大泉
「初めて知らない人の前に出てって、ウケるから。一発でハマってしまったというか。なんて楽しい世界だろうっていう感じましたね。

大学時代はだからもうほんとに演劇しに行ってるようなもんだもんね。ほとんど授業も出ないで。」

そして、初舞台をたまたま見ていたある人をきっかけに大泉さんの人生が大きく変わっていきます。

舞台を見たのは北海道の女優さん。その人が面白い学生がいると北海道のテレビ関係者に大泉さんを紹介し、深夜番組でデビュー。

その後、大泉さんを気に入った番組スタッフが新しい番組を立ち上げます。
それが、「水曜どうでしょう」。

低予算、低姿勢、低カロリーをテーマになんでもありのドキュメントバラエティー番組でした。

北海道のイチ学生が番組のレギュラーとしてテレビ出演することとなります。

ひとたび放送が開始されると、サイコロの旅など体を張った企画が大ヒット。中でも大泉の独特の喋り口やリアクションが番組にベストマッチ。熱狂的なファンを獲得していく。

すると深夜23時台の放送にもかかわらず、視聴率18.6%を獲得。北海道では大泉さんのことを知らない人はいない、まさにローカルスターとなりました。

 

ジブリ映画『千と千尋の神隠し』に大抜擢

そしてさらに今度は、水曜どうでしょうを見ていた熱狂的な視聴者からとんでもない仕事が舞い込みます。

それが、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』の湯屋を取り仕切る番台蛙役への大抜擢。

実は当時ジブリ内で「水曜どうでしょう」のビデオが出回り、それを見たスタッフがどうしても大泉洋さんをキャスティングしたいと熱望し、実現。

その演技が好評を博し、大ヒット作品『ハウルの動く城』にも出演し、魔法をかけてかかしのカブから人間に姿を変えた、隣の国の王子役を熱演しました。

 

大泉
「これはただのラッキーですね。これはラッキーです。ホントに。

『水曜どうでしょう』を見てたジブリのアニメーターの皆さんの中に、『水曜どうでしょう』大好きな人がいて、やっぱクリエーターに多かったんですね。水曜どうでしょうのファンが。」

東野「(宮崎)駿さんとはお会いしたことあるんですか?どんな感じ?」

大泉
「会いましたよ。もうね。ホントに今でも忘れられないんですけど、初めてやるシーン。

声優さんてこうセリフを覚えなくてもいいと思うじゃないですか。見るんだから。で、こう覚えないで行ったわけですよ。そしたら、あの番台の蛙さんて台詞回しが速かったんですよ。「いらっしゃいませ」「何」「いやどうも~」とかその切り替えがすごい早かった。だから台本を見てたらもう全然間に合わなかった。で、緊張もしてるし、全くうまくできない。

それで、しまいには(宮崎駿監督が)「じゃあ、こうしましょう大泉さん。お客さんに言うセリフと千尋に言うセリフを分けて録りましょう」って言われたんです。

もう要はそんな風に録りたくないんだろうなというのはもうわかるわけです。でもどうしようもないから分けて録らしてくれってなる。

それで、後日…あのもっとガヤ(の収録)にも呼んでもらってた。(宮崎駿監督に)「もしかしたらその時に録りなおさせてくださいっていう可能性もあるかもしれない」って言われて。

それでもう、僕はすっかり落ち込んで帰ったわけですよ、マネージャーと。「ホントに駄目だった」とものすごい落ち込んだ。

だけど、僕は悔しかったから今度は台詞覚えたんですよ。(あるかどうか)わからんけど。全部覚えた。
そしたらこのガヤのときに、駿さんがもう1回来てくれて、「すいませんね。ちょっともう1回だけ録らせてください」って言ってくれて。

「きた!」と思って。今度覚えてるから。バン!ってやったわけですよ。そしたらもう1回で駿さんが「大変よくなりました」って言った。嬉しかったあ。

だからあのハウルの動く城なんて、「カブ」って役なわけですよ。水曜どうでしょうと言えば、私が「カブ(バイク)」に乗る企画が有名なんです。

それでまたアニメーターの方たちが、もうこれしかない!って言って。ぜったい大泉さんこれだ!って。
「カブは絶対大泉さんだ」ってことでハウルも出させてもらって」

 

『水曜どうでしょう』が終わり、役者の仕事を本格的に始めると決意

しかし、この時点ではまだ全国放送されるドラマや映画などに出演する俳優の仕事はなく、たまに東京から呼ばれてもバラエティー番組だけ。

2002年。6年間続いた『水曜どうでしょう』レギュラー放送終了。

その不安から、大泉さんは次なる一歩を決意します。

 

大泉
「『水曜どうでしょう』が6年間で終わるわけですね。レギュラー放送が。その時に30(歳)近くになってましたから。で、あれこれ果たしてホントにこれ北海道でこのまま仕事できるんだろうか?

相当私北海道で人気が出ちゃってたから、こっから教師とか、こっからもう一回サラリーマンはきついなと。
何かもっと一生懸命になれることしなきゃダメだと。

なったときに、役者の仕事をもうちょっとちゃんとしようと思うようになるんですよね。それは北海道にはないから。東京で仕事をするしかないと」

北海道でバラエティー番組をやりながら、俳優大泉洋、TEAM NACKSとしても活動を全国へとひろげていく。

大泉
「バラエティーだったら出れるかもしれないけど、役者だと正直今のとこ引きは無いわけですよ。知らないから。僕が演劇やってるなんてことは知らないし、見たことも誰もない。

まあ、やるんだったら本当に小さい役からやるしかない。エキストラみたいなものからやってくしかない。だけど、いやそれは困ると。北海道の人が見たときにがっかりする役には出れないから。

いやでもなんか知らないけど、「僕、そのうち来ると思うんだよなあ」みたいなこと言ってるわけ(笑)。「僕なんかそのうち来ると思うんすよね、なんかこれだ!みたいな仕事がねえ」みたいな。」

 

ドラマ『救命病棟24時』に出演

すると、TEAM NACKSの雑誌の取材中、大泉が周りを笑わせているのをみた人から、とあるドラマのオファーが。

江口洋介さん主演のドラマ。『救命病棟24時』

大泉さんはこのドラマで、『ザテレビジョンドラマアカデミー賞新人俳優賞』を受賞します。

 

大泉
「僕が演じた男性の看護師(役)っていうのが決まらなくて、なんかあんまりピタッとくる人がこないから(役を)無くそうかなと思ってたらしいんですよ。

だけどプロデューサーの上司が「1人面白いのが北海道にいる」というので(雑誌の取材を)見に来たら、「あ、この人!」って。だから、よく芝居見ないで決めたなと思った。」

東野「イヤでも結局、柴ちゃん全部出会いというか」

柴田「すごい、そんな。自分も雑誌の取材何回も受けてますけど、そんなに人を笑わせたことないですもん」

(爆笑)

東野
「お笑い芸人の雑誌の取材はほんとにあの高校生の万引きの取り調べ見たいな感じです(東野さん下を向く)。いや、ほんまに。全員こう(下を向く)。いや、全然盛り上がんない。下向いてずっと喋ってるだけですから」

柴田「相当サービス精神あったんだと思います」

大泉「あっ、そう」

 

映画『探偵はBARにいる』で主演

その頃、北海道での放送が終わったにもかかわらず、『水曜どうでしょう』が全国のテレビ局で次々と放送されるように。

すると今度は、『水曜どうでしょう』がきっかけで映画の主演の依頼が舞い込む。

北海道が舞台の映画『探偵はBARにいる』(2011)。

この作品で大泉さんは日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。

この映画のプロデューサー須藤泰司さんも『水曜どうでしょう』を見て大泉さんにオファーをしたそう。

須藤
「北海道にすごい面白いバラエティー番組があるから、見た方がいいと。それが『水曜どうでしょう』で、めちゃくちゃ面白くて。大泉さんにお願いしたら、大泉さんが「僕も実はこういうの(探偵役)やりたかった」って言ってくれて。「じゃあやりましょう」っていう感じでまとまりましたね。

すごいなあと思うのは、エキストラさんがこの日このぐらい(たくさん)来て。そういう時に必ず「ちょっと僕あいさつしましょうか?」って言ってくれて、マイク持って、「どうもどうもどうも。大泉でございます。」。
挨拶して「今日は皆さんよろしくお願いします」っていう感じになるんで。

ただね…あのその挨拶が…長いんです。20分超えても終わらないんです。

そろそろ次の撮影に行きますか…っていう。
せっかく来たこの時間を楽しんでもらいたいっていうのがスゴくあるんじゃないかなと思いますけどね」

 

もともと俳優を目指していたわけではなかった大泉洋さん。

人を楽しませ続けた結果、どんどん仕事を引き寄せ、いまや国民的俳優にまで上り詰めました。

 

ダマされて始まった司会の仕事

東野
「司会業はだまされた?」

大泉「やっぱりそのNHKのあの『SONGS』という番組だったと思うんです。

あれはね。あれは本当にダマされた。

あれね。いや、正直ね。僕もうスケジュールがパンパンなわけですね。要は今でもあのガチガチに稼働してるローカル番組が3つあるわけですよ。」

東野「北海道で3つやってるの!?」

大泉
「だから、最低でも月2回北海道に帰らなきゃいけない。で、そこで私がドラマや映画が入っちゃうと、もう主演なんかやったら基本休みないわけ。で、たった1日の撮休やっぱり北海道なんです。一体僕にいつ休みが来るんですか?っていう話になるわけですよ。

だからもう無理なんですと。僕はもうレギュラーを増やすってことはできないんだと私は断ったんです、SONGSは。

でも(スタッフが)「大丈夫です。もうどこでも行きますから」と。「大泉さんが北海道にいるんだったら私たちは北海道に行って、収録しますし」と。

それで、前枠と後枠をつけるくらいなキャラクターだった。」

 

元々大泉さんの役割は番組の顔として始まりと終わりに少しだけ喋る程度の存在。

そのため肩書も司会者ではなく、番組責任者という形。

大泉
「だからもう1回の収録で、もう4組くらいバーっと撮ればいいし、まあそこまで私のスケジュールを圧迫しなかったんです。

ところが、じわじわとですね…「今度はゲストがどうしても、どうしてもその大泉さんとトークをしたいっていうんですよ」とかなんとか。「大泉さんとトークができるなら出るって言ってます」とか。ちょっとフワッとくる。」

東野「悪い気はしないよね?」

大泉「悪い気はしない」

大泉
「で、途中でちょっとトークしてみてください。対談してみてくださいって言われて1回やった。で、またなんか乗せるわけですよ「いやぁ~おもしろかった!」みたいな。

で、またちょっとほとぼりが冷めたころに「いやぁ、ちょっとこの間の放送評判が良くて、もうちょっとまた大泉さんと話したいみたいな人がちょっと殺到してます」みたいな。絶対ウソだと思うんですけどね。で、ジワジワと増えてったんですよ。だから、対談が。

そして終いにはついに突然『紅白』みたいな話になるわけです。でも、私紅白好きだから。だから最終的にはもうなんか紅白という人参をぶら下げて、「来週からはもう毎週大泉さんがアーティストとトークする番組になっていきます」みたいな感じとその紅白のなんかオファーみたいなことがジワジワとなんかこうだいたい似た時期になってきた。」

 

なし崩し的に始まり、結果音楽番組の司会を務めるようになりました。

 

ムチャぶりから始まった歌手業

大泉
「当時『ドラバラ鈴井の巣』(2002~2004年)っていう番組があったんですよ(鈴井貴之、大泉洋、安田顕出演のドラマバラエティー)。

まあ、ドラマを作って、そのドラマの作る過程もメイキングも全部見せます見たいな。北海道の番組。

その中で、ムチャぶりしてくるんですよ。僕なんかに曲が作れるわけないのに「大泉さんテーマ曲を作ってください」みたいな。

それでもう当時テレビ局に缶詰めにされまして。
で、もう永遠と定点のカメラ回されて。
でもうほんとに4畳半の控室で永遠と書かされた。泊まりで。

もう壮絶でした。」

東野「それで、結局完成するわけでしょ?」

大泉
「そうですね。それでまあ、その当時『星空のコマンタレブー』っていうばかばかしい歌ができるわけですよ。それが番組の中で何回も(流れる)。そういう曲が増えていくわけですよ。どんどん曲がたまっていくわけです。

曲が溜まってって…曲がたまってったらどうですか?さすがにせっかく作ったし、じゃあそれアルバムにしたいってなるじゃないですか。それを50歳になった記念でベストアルバムを出させてもらった。」

武道館でも歌を歌われたことがあるそうです。

 

ファンのためがモチベーション

実は大泉さんは2年に1度地元北海道で事務所が主催するライブイベントに参加し(事務所タレント総出演)、そこでファンたちに向けたメッセージを書いた歌詞を披露しています。

ファンたちが喜んでくれることもあり、およそ20年。2年に1度のペースで新曲を作っているそうです。

大泉さんの熱狂的ファン(通称子猫ちゃんと呼ばれている)の方のお話

「必ず泣くんですよね。涙が流れるんですよね。全力で楽しませてくれる。絶対的に」

 

大泉
「じゃあ、僕っていう人がどういう人なのか?って言われたら、やりたいことはないんですよ。自分にやりたいことがない。だけどそこでムチャぶりされるわけですよ。音楽…曲作ってくださいって。

じゃあ、どうしたらいいんだろう?って言われたら、僕のモチベーションは何か?って言ったら、じゃあファンのために、(ファンが)何を見たいのかな?何をしたら喜ぶんだろう?しかないの。僕のモチベーション。だからそうするとファンたちに向けた曲になるわけ。だからテレビで歌ってもどうしようもない歌がある。

ぶっちゃけ、皆さんファンのためだったらなんでもしますよ」

大泉さんはとにかく人を楽しませたい!そんな思いを胸にすべての活動を行ってきました。

 

思春期の娘(中1)さんとの親子関係

大泉
「いや、僕はね。思ってるんです。あの…いつかどうせあのお父さんっていうものは娘にしてみたら、煙たい存在になって、どこか嫌いになったりとか。それは覚悟してると。僕はもうそれは分かってるから、もうそうなるまでは僕はともかく君との思い出も全てもうそれで満たすんだと。

どんなにパパ嫌い、パパくさい、息しないでと言われてもいい。これだけ俺を喜ばせてくれたから許せるっていう。

僕は…パパはそういう人間でありたいんだって。だからもう寸暇を惜しんで君といるんだって話をずっとしてたんですよ。

だから、もうずっと。もうとにかく空いた時間は全部娘と過ごすっていう人でした私は。

そしたら娘がですね、この間…学校に送る作文があったんでしょうね。家族のことを紹介するんですね。

こう娘は『父はとっても優しくて、将来私が父とあまり過ごさなくなる時のために、今私とずっと一緒に過ごすと言ってくれています。とっても嬉しいですが、私は父のそういう想いが、今は重たく感じています』」

(爆笑)

東野「愛が重い」

大泉「今は娘は私の想いが重いと」

東野「2人で街歩くとか有名人だからやめてとか」

大泉「ああ、全然ないです。」

東野「一緒に映画行こうか?とかもある?」

大泉
「全然行きます。2人でどこへでも全然。
このままうちの子は(反抗期)あんまりなく(大人に)なっちゃうのかなと。

僕思ってたのは、娘が僕の手を離れたら、もういよいよ本気出そうと思って。僕はまだまだウソん気なんで。オレまだ本気出してないだけっていうのずっと言い訳で…」

 

ファンと一緒に2泊3日の豪華旅行

実は大泉さんはどんなに忙しくても節目の年には、ファンとの旅行を計画。

大泉さん40歳の時(今から11年前)→ファン340人と3泊4日でベトナム旅行

今年大泉さん50歳

→豪華クルーズ船による船旅。

日本最大の豪華客船飛鳥Ⅱを貸し切った2泊3日のクルーズ旅。

700人のファンたちと新神戸から土佐湾を周る。

大泉洋イベントが盛りだくさん。

①キャプテン大泉による出航式

②会場で一緒に写真を撮れる撮影会

③大泉洋を至近距離で堪能できるディナーショー

食後には…大泉さんのカッコいいポイントを本人に発表できる「洋ちゃんをほめちぎる会」を開催。

日本最大の豪華客船ともあってかなり高額ではあるものの、当たらないといけず、かなり倍率が高いようです。

※調べたところ、2泊3日のプランで、1人185,000円~795,000円(税込み・こども同額)だったようです。

 

まとめ

大泉洋さん。
その人間力がすごいなと思いました。

大泉洋さんのようになりたいと思って、優しくなろう、温かくなろう、面白いことを言おう、周りを楽しませようと思って頑張っても、なれない人だと思います。

生まれながら天性の才能なんだろうなと思います。

これからも大泉洋さんが出てる番組を見るのが楽しみです!

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