【徹子の部屋】元テニスプレーヤー伊達公子さん 51歳で「熟年再婚」!充実の日々を(2024年8月放送)

徹子
「テニス界で様々な記録を打ち立て、絶頂期に引退。その後37歳で現役復帰されたことでも知られるテニスプレイヤーの伊達公子さんです」

 

プロフィール

日本の元女子プロテス選手。WTAランキング自己最高位シングルス4位。
アジア出身の女子テニス選手として、史上初めてシングルス世界ランキングトップ10入り。
日本選手21年ぶりのグランドスラムシングルスベスト4
日本女子選手初の全仏オープンシングルスベスト4
ウインブルドン選手権シングルスベスト4進出者

京都府京都市上京区出身
1970年9月28日生まれ(放送日現在53歳)
2001年 ドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚
2016年 離婚。
2022年1月 5年ほど交際を続けてきた男性と入籍

1989年 高校卒業後、プロに転向
1990年 全豪オープンで初の4回戦進出
1991年 ロサンゼルスの大会で準優勝
全日本テニス選手権女子シングルス初優勝
1992年 全仏オープンで初めて4大大会のシード選手になり、4回戦に進出。
全日本テニス選手権2連覇
1993年 全米オープンで初の4大大会ベスト8に進出

1994年 日本女子選手として史上初の世界ランキングトップ10入り

1995年
・東レ パンパシフィックオープンテニストーナメントで初優勝(決勝戦でリンゼイ・ダベンポートを圧倒)
・リプトン国際選手権 準優勝
・全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成
・この年の11月に自己最高の世界ランキング4位を記録
(年間最終ランキングも、シュテフィ・グラフ、コンチタ・マルティネス、アランチャ・サンチェス・ビカリオに次ぐ4位に)

1996年 7月 ウインブルドン準決勝-世界女王グラフとの死闘ー
グラフと最後の対戦。
1セット目はグラフが6-2で先取。
第2セットは伊達が6-2で取り、日没順延。
翌日に第3セット目が行われ、グラフが6-3で取った。

1996年9月24日 現役を引退
2008年 現役復帰(37歳)
2017年 現役引退

世界最高ランク4位!ウインブルドンでベスト4!

小1で始めたテニス→世界ランク最高4位

徹子「京都のご出身で、ご両親の影響で、小学校1年生からテニスをお始めになって」

伊達公子
たまたま家の近くにテニスクラブがありまして。
体を動かすことが大好きだったので。
じっと待ってるだけのことができず、見よう見まねでラケットを持ち始めたのが…」

(高校生の頃テニスコートでトロフィーを持っている写真を見て)

伊達公子
「これはもう高校生の頃なんですけれども、高校生のインターハイというんですかね、はい。
優勝した時です。真っ黒ですけれども。ハハハハハ(笑)」

徹子「現在はテニスの解説やコーチでもご多忙。」

伊達公子
「はい。色々引退してからも新たにやりたいことが見つかりまして。はい。取り組んでやってます。」

徹子「あの、26歳で一度現役を引退なさいまして、その時世界ランクは最高4位だった。すごいわね。世界で4番目に強い」

伊達公子「でした。はい。」

徹子「引退の年、ウインブルドンでベスト4。相当すごかったんですね。」

伊達公子
「(笑)もう勝負にこだわって
ファーストキャリアの時は、あのー毎日勝つことだけを考えて過ごしていた感じでした。」

 

絶頂期に決めた引退

徹子「ところが絶頂期に突如引退を発表なさいまして、世間は驚いた。その時はなぜ引退しようとお思いになったんですか?」

伊達公子
「そうですね。あの当時はやはりまだ、私も若かったっていうのもあるんですけれども。

あのアスリートが世界に行くっていう選手がそれほど多くなかった時代で。

ゴルフだったら、岡本綾子さんとか。野球でいうと野茂英雄さんがメジャーリーグに行くっていうぐらいで。

今はもうサッカーにしても野球にしても、海外で活躍される方がたくさんいるんですけれども、当時はいなかっただけに、こうメディアのプレッシャーも全てこうのしかかってくるっていう感じで。

何よりもやっぱりこう、上手く自分のメンタル的なところのバランスがとれなかったっていう事が、まあ引退ってことを考える大きな要因にはなっていたと思います。」

 

引退後結婚&広がった視野

1回目の結婚(ドイツ人レーサー)

徹子
「ま、引退後は約2年。もうラケットも見なかった
その後、ドイツ人のレーサーの方と結婚なさった。」

伊達公子
「ま、1回目の引退して。まあ、結婚もあり。
そしてJICAのオフィシャルサポーターもやらせていただいた中で、やっぱり初めてこう色んな途上国に行くと、やっぱりその村で作っている人たちが作るご飯が美味しいってことに気が付いて。

なんかすごく自分の視野が広がったというか。
あのー考え方が変わったりっていうことも経験できたのが、1回目の後の時間で感じられたことだったかなというのはありますね」

 

現役時代の考え方「テニスと向き合いひた向きに勝利を求めた」

徹子
「まあ、高校生から突然もうプロになっちゃったっていうことで、テニスしかご存じなかったってこともあった?」

伊達公子
「そうですね。もうほんとにまあ、それでなければ世界と向き合えなかったっていうことも感じていたので。
まあ、テニスをやっていた時はとにかく勝つことランキングをあげることっていうことに、もうこう自分自身でそこだけを考えるような生活を送っていたので。

まあ、引退してからは、あのーテニスをやっていた時はもう黒か白かしか物事の考え方も、もうやるかやらないかっていうことから。
やっぱりテニスを辞めた後っていうのは、あ、グレーっていうのもいいものがあるんだなということを。

なんか、何でもかんでも黒か白って決め付けなくてもいいんだなってことが分かるようになったのも引退してからだったかなと思います。」

 

現役に復帰 「日本選手権優勝」(37歳)

徹子「それで、12年ぶりに、37歳で、すごいんですよ、現役復帰ですからね。
の年の日本選手権で、いきなり優勝なさってしまう(笑)」

伊達公子
「そうなんです。はい。
まあ、なかなか優勝するってことは簡単ではないと思ってたんですけれども。
あのーいざ試合が始まってみると、そうですね、なんかフィーリングがあってきて、シングルスとダブルスも優勝して。2種目で優勝する事が出来ました」

 

2回目の引退 「体が限界に」

ひざと肩がダメに…

徹子
「もうだから30代、40代も休むことなく。2度目の引退は、理由は体の限界

伊達公子
「はい、そうですね。やはり2回目37歳からスタートしたので。
もうやはり回復力っていうものが追いついてこなかったので。

あのそれとどうやって向き合うかってことに苦しむ時間がだんだん後半になって多くなって。

最後はひざを手術しまして。
で、もう一度復帰したんですけども、結局100%に戻らないので。

今度が。ここがもう完全に。腱板(けんばん)っていうのが切れてまして。

で、それでもう、上も下もひざも肩もダメになってしまって。
泣く泣く。引退を決断しました。」

徹子「もしそのひざだの肩だのが悪くなってなかったら、今でもやってらっしゃる?」

伊達公子
「そうですね。やれるものならやりたいという想いは強くその当時はありましたね。
ただ体はやっぱり限界を超えて、悲鳴をあげてたので。
それを受け入れなきゃしょうがないなという思いでした」

 

早稲田大学の大学院に通い、卒業

徹子
「あの引退後手術をなさったので、運動できない間に、なんか大学院へ通ってらした?」

伊達公子
「はい、そうなんです。
もう2回目の引退をした時に手術の日が決まっていたので。
あのーまあ、手術をするとリハビリもしなければならないということで。
なんかこうその時間をうまく使って、自分自身のインプットできることをやりたいなっていうのが自分の中で出てきまして。

それでまあ、テニスの仲間が「あの伊達さん引退したら何するんですか?」ってずーっと言われてたことが、ふっと思い出して。
「大学院とか行ったり、興味持たないんですか?」って言われていて。

私の場合、あのー高校卒業してもうプロになっていたので。
大学というものも行く時間がなかったので。
私が言ったのが早稲田のスポーツ科学科という所になるんですけれども。

この肩の手術をしてる時間を使ってインプットしようという事で、大学院に行って。

週に…でもふたを開けてみると、週に4回位授業には行って。
本当にこの早稲田キャンパスにしっかり通いながら。
皆さんに、同期のみんな、そして色んな方に助けていただきながら、1年間。

なかなかついていけないようなこともあったんですけれども、やっぱり仲間がいてくれた…社会人修士になるので、あの色んな企業の社長の方もいらしてたりするんですけれども。

あのー助けていただいて。いい仲間にも巡り会えて。
教授にも助けていただきながら、卒業する事が出来ましたね。」

徹子「卒業できた?」

伊達公子
「そうですね。論文は私自身がずっとテニスの中で興味を持っていたサーフェイスっていうテニスのコートの表面の材質の事なんですけども。

日本の中には世界基準ではないコートが50%以上占めてるんですね。

で、それを世界で活躍するために、どういうサーフェイスが必要なのかっていうのを自分でリサーチして、データをとって、それを論文にしました。

で、一応最優秀論文賞もいただいて。はい。ありがとうございます」

 

離婚(45歳)

離婚理由は共通の趣味がない

徹子
「現役中の45歳の時に、ドイツ人レーサーの旦那様と離婚なさった。で、離婚後の人生について、それは話し合って決めた?」

伊達公子
「そうですね。あのー今でも仲良しなんですけれども。
あのー前向きなお互い話し合って、まあ一旦ちょっと離れてみようかってことで離婚を決意したんですけれども。

まあ、それのなぜかっていったら、彼が「お互いのこう共通の趣味が無いよね」って言い始めて。

で、若い時はお互いスポーツが好きだったので、良かったんですけれども。

やっぱこれから少しずつ体力も衰えて行く中で、2人で同じことができることがないっていうのはあんまり良くないんじゃないかって。
2人の趣味を見つけようかとかってことで話し合ってた時間もあったんですけれども。
まあ、最終的には一旦ちょっと離れようという事で、離婚に至りました。

でも今でも連絡とって、会うこともありますし。
向こうももう結婚して、良く知っている人なので、4人でご飯食べたりってこともしてます」

 

2度目の結婚(日本人)

結婚相手の条件にピッタリな人

徹子「まあ、人生のパートナーは欲しいって友人に相談なさって。お相手にはいくつか条件があったんですって?」

伊達公子
「(笑)はい。あの、そんな難しい条件ではないんですけれども。
私が食べること大好きなので、食べることが大好きな人とか。
あのー仕事にちゃんと情熱をもってエネルギーを注げられる人とか。
私よりは年上がいいなとか。
まあ、離婚経験があっても全然私は気にしなかったので、離婚経験があっても大丈夫とか。

旅行もこれだけずっと若い時から旅行に行ってたので。やっぱりなんだかんだ言っても旅行が私も好きなんだなと思って、旅行も一緒に楽しめる人っていう。

それぐらいですかね。はい」

徹子「その条件にぴったりの方がですね、まあ偶然いらっしゃるという事で、紹介されたのが今の旦那様なんですって?」

伊達公子「そうですね、はい。あの、私は誰か見つけたいという思いでお友達の紹介でセッティングしていただいて…」

 

旦那様は中華料理店の総括支配人

(伊勢市の夫婦岩で夫婦で撮った写真を見て)

伊達公子
「2人で一緒に夫婦岩に行った時に録った写真を発表の時に使わせていただいたんですけれども。あの、普段はもうスーツばっかり着てる」

徹子「お仕事はどんなこと?」

伊達公子
「えーと、都内の中華料理店で統括支配人をしてます。
ただあのーだいたいレストランにいるっていうとシェフか料理ができる人と思われることが多いんですけれども。
あの、料理は一切しなくて。
お客様をお招きして、ご挨拶してっていう事をしてるんですけれども」

 

最初はフラれた…

徹子「でも最初はなんかフラれたんですって?」

伊達公子
「そうなんですよ。相手にしてもらえなくて
なんかあの、もう仕事に生きる!って決めた矢先だったみたいで。会った時が。

それで私はもう一度一緒に過ごせる人を求めて会いに行ったんですけど、向こうは何かあんまりそういうこと聞かされてなかったみたいで。

たまたま行ったら、なんかもうそういう空気が流れてて、これはまずい!と思って、しばらくは相手にしてもらえなかったんですけれども。

あのーテニスのように粘り強く時間をかけてやっと一緒に過ごせるようになりました。

でも、入籍とかは、最初の頃はお互い考えてなかったんですけれども。
あのーコロナ禍もあったりして。
彼の中にも少し気持ちの上で変化があったみたいで。
そして2年前ですか?…もうすぐ2年半くらいですかねに入籍をして。
楽しく過ごしています」

 

一緒に食べるのは朝ごはん

徹子
「でも、旦那様に初めてお食事をおつくりになった。手料理お出しになった時は緊張された」

伊達公子
「いや、もう本当にそれがすごい最初嫌で。プレッシャーで。
いやー作るの嫌だなと思ったんですけれども。
やっぱりお店で出すものと家で食べるものは同じじゃなきゃいけないっていうことは求めていないっていうことを理解できて。
本当に大したものは作れませんけども、時間がある時は作って、美味しいと言って食べてくれてます。
でも、何が入ってるって全部言い当てるんですよ。調味料とか。
料理はできないんですけれども、どうやって作るかもわからないけど、何が入ってるかは絶対わかるんですよ。
なので、下手なことはできないんですけれども。はい」

徹子「良い方ね。よかったですね。なんか最初は夕食もあなた召し上がらないで待ってたんですって?」

伊達公子
「そうですね。最初一緒に暮らし始めた頃は、夜11時とかでも待って、一緒に食べてたんですけれども。
やっぱりまあ、どちらかというと早く食べて早く寝て早く起きる方が好ましいんですけれども。
さすがに仕事柄そうもいかなくなってきたので。
じゃあ、あんまり遅い時間に食べるのはもう辞めようと思って。
ちょっと前までは先に私が食べて置いといて。あっためれば食べれるもの。煮込みとかそういうものを作るようになったんですけれども。

それもやっぱり、彼も年齢と共に遅い時間に食べるよりは早い時間に食べた方が、まあ体の為にもいいので。
私が食べる時は1人分作るんですけれども、あの2人分はもうあんまりつくらないようにして。
もう完全にお休みっていう時だけは、一緒に食べるっていう事はしますけれども。

あのーまずは健康な体を維持するために、いい状態でいられるように。
はい、その辺はちょっとずつ一緒に暮らし始めてからの時間で変わって来てはいますね。」

徹子「今は朝食時間で会話を」

伊達公子
「そうですね。あの夜は相当疲れて帰ってくるので、なにかこう…私がすぐ何でもこう話したい気持ちがあって色々こう話すんですけど。
なかなかこう頭が入ってこない所が彼の中にはあるようで。

なので夜よりはもう朝。
ちょっと一旦寝て。疲れをとってから朝。
朝食を食べながら色んなこうスケジュールの確認したりとか。
こんなことがあったあんなことがあったとかっていう時間は朝するようにしてます」

徹子「それはうまく行ってるの?」

伊達公子
「そうですね。朝ごはんは、お料理全くできなかった人なんですけど。
私がコーヒー好きで、コーヒーの豆を毎朝ひいてコーヒーを入れるんですけど。
それをやってくれるようになったので。
朝は大体全部作ってくれます。
作るというか…コーヒーを入れるのとパンを焼くぐらいなんですけど。うちは」

 

性格が正反対だから上手くいっている

徹子「性格が正反対なところが、結局うまくいったようだ」

伊達公子
「そうですね。何か言葉を発する時というのが、これを言ったら相手がどう感じ取るか。どういう風になるか。っていうことを考えすぎてなかなか言葉が出てこなかったりするんですけど。

私は思いたったらすぐパンと言うタイプなので。

デコボコで丁度いい…バランスが取れてるのかなと思います。」

徹子「そうると、夫婦喧嘩はあんまりなさらない?」

伊達公子「そう。私が1人でなんか言って、向こうはだまーってる感じですかね。(笑)と思います」

徹子「うまくいきましたね。おめでとうございます」

伊達公子「ありがとうございます」」

 

旦那さんの趣味のスキーを一緒に

徹子「旦那さんはなんか趣味スキーなんですって?」

伊達公子
「えーと、スキーは、もうずっとスキー部だったんですよね。学生時代。
なので、趣味というか、どちらかというとちょっと専門に近いというか。
なので、最近は一緒にスキー行けるようになったんですけれども、教えてくれます。

父親が山が好きで、夏はハイキング。冬はスキーで。
子どもの時はスキーで私も滑れていたんですけれども。
やっぱりテニス試合で忙しくなってくるとスキーからも遠ざかってしまっていたので。

まあ、ひざがだいぶこう手術して一時期はこうちょっと怖かったりもしたんですけれども、だいぶひざの状態も良くなったので、まあスキーもできるかなって再開して5年位ですかね。

楽しく。スキーにどっぷりはまってます」

 

現在中学生のコーチ

関節内はボロボロだが、続けているトレーニング

徹子「でも現在運動をやってらっしゃるんでしょ?」

伊達公子
「そうですね。引退してからも、あのーまあ表面的にはあの元気なんですけども。
やっぱりこう関節内はボロボロなので。
週2回のこういうトレーニングは続けてやっています。

なかなかもうスピードも反応も悪くなってくるので、昔出来てたことができなくなることのほうが多いんですけれども。
そこを受け入れながらやってます。

テニスは週に1回目指してやろうとしてるんですけども、これも息切れしてるんですけどもちょっとやると。あのなかなか。
テニスはやっぱ相手が必要だったり、コートの確保が必要だったりするので。なかなかそう簡単にはあのできなくて。
最近でこそもう月に…2~3週間に1回できたらいいぐらいなんですけれども。
でもテニスはやっぱりやると楽しので。はい。続けてます。」

 

日本の女子テニス界のため、中学生から育成

徹子「現在は伊達さんは中学生のコーチをしていらっしゃる」

伊達公子
「そうですね。引退をして、長年お世話になっているラケットのメーカーがあるんですけれども。
そこと一緒に、これから長くできることっていうのはどういうことがあるかなって言った時に。
やはり私の中に「育成」だったんですね。

当然日本の女子テニス界っていうのがもっと強くなってほしいという強い思いもあったので。

まあ、2年間でずっとやるんですけれども。

今の一番小さい子は、今年の4月から中学1年生になった子。
入った時は6年生とかだったんですけど。上が16歳位までなんですが。

やはり世界に行くために必要なことをできるだけ早めにインプットさせてあげたいなという思いで取り組んでます。

今の若い子達っていうのは本当に意欲的で。「将来どうしたいの?」っていうと必ず世界1になりたいです。グランドスラムで優勝したいですっていうことをやっぱり口にちゃんとできるので。

やっぱりじゃあ、そのためにどういうことをやっていかないと、その夢の実現っていうのはできないよねっていうのをこう説明して。何度も何度も説明しながら、やり取りをしてます。

まだ体も頭もエネルギーを全部使える時に、出来る限り出来ることはやりたいなと思ってます。」

 

長生きする家系 110歳まであと50年!

徹子「伊達さんはご親族に長生きの方が多いんですって?」

伊達公子
「そうなんです。女系が、祖母が98。それから伊達の本家の方に108って方がいたんですけれども。なので、私110まで最低でも生きられるんじゃないかと思っていて。

あのーまあ、それもあってまだまだ50の時に結婚も考え始めて

まだこれから同じ50年生きるんだったら、まだやれることいっぱいあるなっていう。

こう自分自身で後押しされたところはありましたけれども。

まだまだこれから
とはいっても、やっぱり若い選手たちが世界で羽ばたくサポートをこれからもしていきたいなと思ってます」

 

おまけエピソード:世界遠征のお供はおにぎり(21歳時の出演時に)

徹子「なんかお食事なんかにもあのこだわりが強かったこともあるんですって?」

伊達公子「はい。そうですね。あの最初にここに出させていただいた時にも、おにぎりが大好きっていう事で」

徹子「ちょっとVTRでその頃を見ていただきます」

1992年放送 伊達公子さん当時21歳のVTR

徹子「日本のご飯を召し上がらないとダメなんで、全部荷物がものすごいんですって?」

伊達公子(当時)
「ていうか、やっぱりあのご飯が好きなんですね。
それで、やっぱりご飯食べてるとすごく落ち着くっていうか。
それで最近は、あの小さなお鍋がありまして、それをいつも持参して。
あとレトルトパックのご飯をいくつか何パックか持って行って。
それであの試合の時だけなんですけども、お湯を沸かして、ご飯をあれして、おにぎりを2つくらい作って。
で、試合前にたべるんですけども。
うーん。パスタとかバナナとかも食べるんですけども、やっぱりおにぎりがね、一番いいかなと思って。
いつも梅干し持って行って」

伊達公子
「(笑)若いですね。いや、ホント最初そうですね。
炊飯器の前にお鍋の時代がありましたね。お鍋で、レトルトのご飯で作るって。
そこから炊飯器って時代に変わっていきましたね」

 

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