『日曜初耳学』に出演された大泉洋さん。
まだまだしゃべり足りない。
1週では放送に入りきらなかったということで、延長戦。
まだまだ面白いエピソードがありました。
紅白の舞台裏『内村光良さんと大喧嘩?』
2023年紅白に歌手として初出場された大泉さん。
その前年は紅白の司会を務めていました。
そして、2023年大泉さんが歌手として出演された時の紅白司会がウッチャンナンチャンの内村光良さんでした。
林「改めて振り返っていかがですか?」
大泉
「司会を3年させていただいて、その次の年に歌手で出させていただきましたから。ぶっちゃけ、司会をするよりは…まあ、失礼な話なんですけれども、最初はですよ楽だなと思ってたんですよ」
林「冒頭に新しい学校のリーダーズのメンバーの一員のように踊ってましたからね」
大泉
「新しい学校のリーダーズの新しいリーダーのようにずっといましたからね。なんかね、位置がど真ん中に入っちゃったんですよね」
2023年紅白歌合戦オープニングシーン
司会でもないのに大泉さんは冒頭で我が物顔で仕切りはじめ、さらに大泉さんが新しい学校のリーダーズのリーダーに見えてしまうハプニングがありました。
大泉
「あれもだから後日内村さんにね、ちょっとお会いする時があって。
内村さんとは僕初めて司会した年に一緒に司会してましたから。とっても尊敬してますし。
ですから、今回の歌手として登場した僕を見て、褒めてもらえるかな?と思ってたんですよ。僕の紅白をね。
すると内村さん開口一番「出すぎだよ、君」。
やっぱなんか有吉さんへの愛が強くて、内村さんは。
僕LINEで言ったよねって。「後輩有吉をよろしくお願いします」ってあれほど言ったのに、君の登場は何だあれは。いきなりマイクを取って「司会の大泉ですとかなんとかって言って、出すぎなんだよ」とかって怒られた。
「そんなに怒ることあります?」って喧嘩ですよ。
「仕方ないでしょ。台本に書いてんですから」って言って。
「俺も台本にないなら、あんな恐ろしいことしませんよ」って言って。
「じゃあ、本当にあそこまで司会の大泉洋ですとかってそこまで書いてるわけ?」っていうから、「確かにそこまでは書いてないけど」「じゃあ、やっぱりアドリブじゃねえか」。
で、またその後新しい学校のリーダーズの真ん中にカメラのアングルで入ってしまったからね、また。また余計うるささが増してしまった。そこもまた内村さんにも若干怒られましたけども」
20代から続けている作詞作曲
林
「作詞されるっていうのは、何となく納得も行くんですよ。作曲はどうされてるんですか?」
大泉
「作曲は…そうですよね。
私ピアノ弾けないんで、楽器は使えないんで、もう思いっきり鼻歌ですよね。
「♪ふんふふ~ん ♪ららら~」ですよね。
昔はもうほんとに録音機材を持って。ずっと曲を作んなきゃいけない時はそれを持ち歩いて、なんか思いついたら、「♪ららら~」でガチャッと止めて。
それをレックして、そこにプロがオケ(伴奏)をつけてくる。
もともとやっぱりだからまあ、むちゃぶりに近いわけですよね。
だから北海道のテレビ番組のなんかムチャぶり。
だからそこで仕方ないから、こう作るんだけど。
まあだからなんかただただ面白い曲を作ってもやっぱり面白くないから。
なんかバカバカしい歌なんだけど、何かよく聴くといい歌だよねっていう、なんかやっぱそこを狙うわけですよね。作る側としてはね」
林
「単にバカバカしい歌じゃなくて、実はよく聴くといい歌って、やっぱオファーの期待を絶えず超えることなさって来たわけですね」
大泉「まあ、そうですね。とにかく期待に応えたいしかもうない人ですからね」
林「いや、期待を超えてますよね」
映画で共演した菅野さんから見た大泉洋さんは「お子様ランチ」
とにかく期待に応えたい。そんな真摯な姿勢は撮影現場でも同じ。
最新作ディア・ファミリーで共演した菅野美穂さんは…
菅野
「大泉さんを一言で言うと、トルコライスみたい?
だからこう一皿の中に、大泉洋という一人の人の中に、パスタがあって、エビフライがあって、ピラフがあって。だからその、演じる大泉さん(俳優)、歌う大泉さん(歌手)、笑い取る大泉さん(笑い)、みたいな感じで。お子様ランチじゃんと。
お子様ランチってみんな好きじゃんと。故に我々は大泉洋が好きなんだと」
ディア・ファミリーは小さな町工場の社長が、心臓病の娘の為、人工心臓の開発に挑んだ実話。
撮影の休憩中も大泉洋さんはとにかく明るく、率先して現場を和ませている。
対談の休憩中にも常に現場を笑わせている。全ては期待に応えるために。
菅野
「大泉さんちょっと、マネージャーさんが心配するからあんま言わないでほしいとおっしゃってたんですけど、なんかそれこそ大泉さんが北海道行ったら、雪で撮影が止まったりとか。で、クランクインも確か雨だったし。
大泉さんがここぞっていう時は、何か降るみたいで。
で、私新しい芸名を考えました。与えるに雨。「大泉与雨(よう)」。音は残して。
ちゃんと検索したんですよ画数。吉凶混合。
ちょっと芸名のお着替えをしたくなった時に、覚えていただいたらなと思ってます」
林「与える雨の方どうですか?」
大泉
「いや、いらないですよ、そんなもの。
いや、ほんとにね子育てが大変らしいんですよね、美穂ちゃん。
だからあんな忙しい中で、人の芸名なんて考えてなくていいからって思う。
もっとなんか違う事したら?」(爆笑)
林「いや、でもほんとに和気あいあいとした楽しい現場だったんですね」
大泉
「そうですね。ほんとに菅野さんのキャラクターもあってね。本当に面白い人でした。
もうとにかくあの人が楽屋に入ると分かるんですよ。「ギャハハハ」って笑い声が聞こえる。またなんか山賊が帰ってきたぞ。
ですごかったのが、彼女はとにかく差し入れがすごいんですよ。
もうこんななんか地方都市で、いったいどこで買ってくるんだ?っていうくらい買ってくるんですよね。
で、私も悔しくて。そらもうやっぱり東京でやるしかないと思って、東京でこう私がドーナツを差し入れしたんですね。でこれはまあまあ、手に入らないドーナツなんですよ。
やっぱ菅野さん何でも知ってますから。
「うわー あのドーナツじゃないですか すごーい」とかって言って。
「えー」とか言って、「ちょっとタッパー持ってきて。家族の分も持って帰るから」とか言って。
「いや、タッパーはダメだ。家族の分とかダメに決まってんだろ。1個だ1個。一人1個ですよ!」と私言ったわけですよ。
そしたらその次の日ですよ。
また菅野美穂さんから差し入れ持って来まして。なんか高そうないちご大福ですよ。なんかもうどこのですかみたいな、おしゃれないちご大福を持ってきてくれまして。
「うわーありがとうございます」って私の所にほんとに4つくらいあるんですよ。「いや、こんなにいらないですよ」って。「ご家族の分もどうぞ」。」(爆笑)
林「完敗ですね」
「水曜どうでしょう」終了時の葛藤
日本アカデミー賞男優賞を4回受賞(2012、2016、2018、2023)。
そんな大泉洋の礎となった番組が大学生のころ出演した「水曜どうでしょう」。
全国36局で放送。アメリカのロサンゼルスの日本チャンネルでも放送。
しかし…2002年に突然レギュラー放送終了。
この時こそが俳優大泉洋誕生のターニングポイントとなりました。
そもそも大泉洋さんの才能は水曜どうでしょうのもっと前から開花していました。
大泉さんがバラエティー番組に出たきっかけ
林「そもそもバラエティー番組出るきっかけは何でしょうか?」
大泉
「一番最初は北海道で、要はその深夜番組があったんですよね。
『モザイクな夜』っていう深夜番組がありました。
まあ、ちょっと時代ですよね。あの番組でまだおっぱいとかが出せた時代でした。
ちょっとエッチな番組だったんですよ。ほんとにその最後の時代でしたね。
だからそこでまあ、「元気くん」っていうキャラクターがいて、要はすすきのの女性がいるお店をリポートするレポーターの役でしたね。
初代元気くんの方が辞められて、2代目を探さなきゃいけないって所で、当時大学1年生だった私に白羽の矢がたった。でそこに私は元気くんとして出ることになる。
ま、その元気くんを3か月くらいやったのかな?
ま、それでなんか変わってて面白いねこのお兄ちゃんはってなって、今度スタジオに呼ばれるようになって。
でスタジオで当時あの『ニュースジャピャン』っていう怒られてもしょうがないような番組が始まったんですよ。これはもう当時の北海道は怖いものなしですよね、やっぱ。
まあまあ、SNSもないし、まあ怒られねえだろうと思ってるんですよ。そこで私は経済評論家みたいなキャラクターでるようになって。で今度ニュースジャピャンっていうのは隣でまだおっぱい出してるような人がいる時代だった。でもそれはもう時代的にダメだってなって、ニュースジャピャンは4か月で終わり、その後で始まったのが、『ザ・スプーク』っていう番組が始まったんですよ。ダメな局なんですよ、あそこはほんとに。
その番組とかにはすでに水曜どうでしょうの(ディレクター)藤村忠寿さんというあの名物ディレクターがその番組にはもう関わってたんですよ。で、いよいよモザイクな夜も終わるってなった時に、その次の番組が始まるまでのなんかつなぎで、藤村何か番組作れって言われて。で、その藤村さんが、じゃあ番組作るってなった時に、「大泉と実はやりたいんだ」となって、出来上がったのが『水曜どうでしょう』だったんですね」
この藤村ディレクターとの出会いが彼の運命を大きく変えていく
『水曜どうでしょう』がスタート
大学3年の時に始まった『水曜どうでしょう』。
タレント2人、ディレクター2人で旅をするロケ番組。
あまりに自由気まま、過酷なロケであったために、当時大学生だった大泉さんと藤村ディレクターはたびたび衝突していました。
大泉
「もう忘れもしない。一番初めオーストラリア縦断っていうのをやったんですよ。
で、オーストラリア縦断をして、その辺がまたねあのおっさんのイラっとする所なんだけど、ロケの帰る日1日間違えてるんですよ、あの人。大ミスですよね。1日間違えてる。
で、そうなってくると俺大事な試験に出れないんです、大学の。卒業をかけた試験があるから、これ出なきゃダメだって言って。(藤村)「うーん、そうだなあ。やばいな、これはな。ヘリでも飛ばすかい?」とかって言ってんだけど。「うるせえ、この」って話じゃない。
ほんで、結局ギリッギリですよね。千歳(空港)からほんとにタクシーでギリッギリ大学ついて慌てて試験受けてみたいなこともありましたよね。」
当時北海道でのテレビ占拠率が約50%。
これは北海道の視聴者のおよそ半数が見ていたという事。
しかし2002年レギュラー放送が6年で終了。
「一生どうでしょうします」で終われた『水曜どうでしょう』レギュラー放送
林
「率直におっしゃっていただきたいんですけど、大泉さんは番組を終わりたいと思ってたんですか?」
大泉
「思ってない。だからね、ほんとにね切なかったですよ。
あの『水曜どうでしょう』っていう番組は、藤村忠寿(チーフディレクター)さんと嬉野さん(ディレクター兼カメラマン)っていう2人で1から10までやる(作る)わけですよ。
だから彼らは『水曜どうでしょう』をやっちゃうと、それ以外の仕事が何もできない。
そこでやっぱり彼らは、どうでしょう以外のことがしたくなってくるわけですよね。
だからまあ途中放送を1回休むんですよね。
なんかね、その辺からこうやっぱりなんていうんだろうな。
『水曜どうでしょう』に対する熱意がディレクター陣にこう冷めてきてるっていうのが僕ものすごくよく分かったんですよ。
だからね、番組が終わりそうになってるときっていうのは、余計に必死でしたよ。
終わらせちゃいけないと思ってたから。
だから、もっと面白いことしなきゃっていう焦りが僕の中にはあったんですよね。
だけどやっぱり、藤村忠寿さんも辞めるとは言えなかった。ファンが熱烈だから。」
ファンの期待には応え続けたい。大泉もスタッフも葛藤を抱えていました。
しかし、そんな中途半端な状況を一変させたのが、偶然ロケで放った大泉洋さんの名言でした。
大泉
「私がもう風邪ひいてね、『東北生き地獄ツアー』っていうバカな企画があったんですよ。
で、私はもう風邪ひいて寝てたんですよ。
ところがそこに、酔っぱらった藤村ディレクターが来て、「どうした大泉くん寝てんのか?俺と腹割って話そうじゃないか」っていうから、「いやいや、腹割って話すとかじゃない。俺寝てっから。具合悪いから帰ってちょうだい」って。「何だよなんかあんのかい?話したいこととか。よしじゃあ腹割って話そう」「いやだから、頼むから帰ってくれ」と。「いやいやでも、言いたいことがあるんだろ。だから君は今言ってるんだろ。だったら話そうじゃないか」って。「イヤイヤ違う違う。何にもないよ。君に対して不満なんかないから、お願いだから帰ってちょうだい」「いやでも話したいことがあるなら話そう」一点張りなわけですよ。
そこで、「いやいや、文句なんか何一つありません。私は一生どうでしょうします」って名言吐いちゃったんですよ、私は。
なもんだから、一生どうでしょうするっていう言葉が水曜どうでしょうの名言として残ったわけですよ」
大泉
「それをうまく使って「番組はやめません。一生どうでしょうします」。でも一旦ここでレギュラー(放送)は終わらせます。ってことで、やっとレギュラーを終わらせられたんですよね、彼からしたら。
だから、番組は一生続けるっていう言葉がありますので、数年に1回ロケをするんですよね。
オリンピックよりも(ロケ)しないんじゃないでしょうか」
レギュラー放送はが終わっても水曜どうでしょうは一生やり続ける。
この言葉で人生をかけて挑んできた番組の終了を全員が受け入れることができました。
東京進出と盟友藤村ディレクターからの温かい言葉
そして水曜どうでしょうが終了して2年後の31歳の時に東京進出を決断
実はこの時盟友藤村ディレクターから厳しくも温かいある言葉を贈られました。
大泉
「なんか藤村さんから言われた言葉ですごいなと思ったのは、僕が要は東京の仕事もやりますと。で、役者の仕事もやっていくとなった時に、やっぱり悩むんですよ。
果たして本当にやっていけるのかな?っていう不安はありましたからね。
まあそういう話を藤村さんにも旅に行ったらしたりはしていたわけですよ。そん時彼が、当時パソコンのメールですよね。ながーいメールをくれて。
『お前は今まで役者っていう顔を持ちながらバラエティーをやってた。
役者であることを言い訳に軽い気持ちでバラエティーができたんだと。
だって俺は役者だから別に面白くなくていいんだっていう気持ちでお前はバラエティーをやってた。だからお前のバラエティーは面白かった。
だけどここからは言い訳がきかない。
だってお前は役者で、本当に役者をやるわけだから。
お前はこれからは言い訳がきかない仕事を東京ですることになってく。
だけどお前は、それでもすぐに自分の昔からいた場所だったかのようにたぶんすいすいお前はそこを泳ぎ出すと思うよ』
っていうメールをくれたんですよね。だから、心強かったこともあるし、改めて何てこの人は見事に分析してたんだろうなっていうね。
まあ、本当にその通りだなっていう感じでしたね」
東京進出の翌年2005年『救命病棟24時 第三シリーズ』 朝ドラまれ、大河ドラマ『真田丸』、映画『浅草キッド』などに次々と出演。日本アカデミー賞優秀主演男優賞を4回獲得。
*おまけ:ゲスト森口博子さんの忘れられない言葉*
森口
「私タモリさんが中学校の先輩なんですけど、ご自宅に遊びに行かせていただいた時に、40代の時、「前パッってできていたことが、最近時間かかる。かかってもできればいいけど、出来ない時もある。すごい悩みます」っていうお話をしたら、「前に出来ていたことが正解とは限らないから」って言われて。それですごい気持ちが楽になって。
「今できる事を一生懸命やればいいんだよ」って言って。
それがいますごい根底にありますね。自身に繋がりました」
私たちの使命は後の時代にどれだけの物を残せるか
大泉
「だからまあなんか真面目な話をすると、人が生きていく理由っていうのは、この年になると考えるわけですけど、何ができたときに一番満足するのかなあと思うと、我々の使命っていうのは、いかに繋げていくかっていうことなんだと思うんですよね。
それは単純に子供を作るって話ではなくて、やっぱり後の時代にどれだけの物を残してあげれるか。それが僕たちの喜びだし、最終的などっか使命なのかなと思うんですよ。
この年になるともう20歳のころだとかは、やっぱり自分がやりたいことをやってたし、なんで役者やるんですか?っていわれたら、そりゃやりたいからだよって言ってたけど、ある時やっぱり、僕がすることで、喜んでくれる人がいるんだ。そこで僕の仕事っていうものが初めて意味を成したっていうか。自分がやってることが合点がいった。人に楽しんでもらうためにやってるんだっていう。
やっぱり人のために何かできてやっとたぶん人は満足するんだろうなあっていうのは思ったんですよ。」
だから大泉洋さんは真摯に芝居と向き合い、全力で笑いを取りに行く。
見ている人に満足してもらうことが自分の幸せなのだから。
林「次は来年1月に主演映画が公開されることがもう決まってますんで、その時はまたぜひお越しください」
大泉「もうないけどね、本当に。なんかね、こうなってくるとやっぱり、毎日毎日、この番組(初耳学)のために、なんか面白いことを探すようになってきて。
なんか起きたら、「これで初耳学で話せる。よかった。これで何とか初耳学に出れる」みたいなのが、なんかあんまりそういう人間になりたくない」