【おしゃれクリップ】女優 木村多江さん 亡き父の秘められた愛に涙(2024年8月18日放送)

俳優(女性)

俳優 木村多江さん 53歳

いわゆる幸の薄い役が大ハマり。
唯一無二の幸薄女優というポジションを築きました。
そして、今では狂気を演じさせたら右に出るものなし。
演じるたびに話題沸騰の怪演女優です。

 

木村多江さんはロックな人

山崎育三郎「多江さんとロックっていうのは全く…」

木村多江
「なんか(坂井)真紀ちゃんが、「多江ちゃんってロックだよね!」って言った時に、なんか自分の中で、ああ私を表現する言葉ってそれだったかもってちょっとしっくりきたんですよね。

もう学生の時代から、ずっとそうで」

 

山崎育三郎「学生時代から?さっき(小さい頃の)写真だとお嬢様と言いますか…」

 

木村多江
「まあ、お嬢様学校って言われる学校にね、12年ぐらい行ってたんですけど。

小学校1年生からずーっと行ってて。

で、とにかく規則がものすごく厳しくて。

前髪も押さえて眉毛までとか。
で、ポニーテールはいけないとか。
全部決まってたんですね。

で、スカートの長さ、靴下の長さとか。」

 

山崎育三郎「あ、結構それで押さえつけられてるじゃないけど、自分の中で」

木村多江
「そうですね。みんなは単純にルールを守れる人たちだったんだけど、私はその理由が分からないとちょっとそこに反発心が生まれるみたいな」

井桁弘恵「じゃあ、そういう所がロックの原点?」

木村多江「そうですね。学生時代からもう既にあって」

 

坂井真紀さんの証言

坂井真紀「多江ちゃ~ん。坂井真紀です」

質問 どんな所で「多江ちゃんはロック!」と感じたんですか?

坂井真紀「多くの方が持ってるイメージって、静々とした多江ちゃんだと思うんですけど。

踊りますよ。

番組とかで、多江ちゃんが踊ってる姿ってみたことある方もいらっしゃると思うんですけれども、激しく踊ります。
そこもロックンロールです。

あと、よく食べます
もうやめとこうよ…って言うくらい召し上がります。

そうやって豪快な一面があっても、おしとやかな部分もあって。知的だし、人に優しいし。

マリア様のような考え方を持ちつつ、ロックンロールだから。

聖母マリアがロックやってるみたいなのを想像してくださったら、一番多江ちゃんにふさわしい言葉な気がする」

 

子どもは1人で生きていけるように育てる

2人は10年前の共演(2015年フジテレビドラマ「黒い看護婦」)をきっかけに、意気投合。
以来、家族ぐるみの付き合いに。

坂井真紀
「ウチの娘と多江ちゃんのとこのお子様と5歳位違って。
多江ちゃんちの方が5歳位上なんですね。

子育ての色々お話を聞いてもらったりとか。
あと、ウチの子が初めてのお泊まりしたのは多江ちゃん家です。そこも、なんか「来なよ!来なよ!」みたいな感じで。
ボーンっとね子供のなんか背中をドーンと押してくれるんですよね。

「もう、何も持ってこないで来なよ!」みたいな(笑)。
「もう、やった方がいいよ。人の家に泊まるの経験した方がいいよ!」みたいな」

 

山崎育三郎
「お子さんを預かるって時も、おいでよ!手ぶらでおいでよ!みたいのありましたけど。
なんか子育てとかで意識してたこととかあります?」

木村多江
「そうですね。まあ、私は父が早く亡くなったりしてて。

まあ、親がいつ亡くなるかって分からないので。

やっぱり1人で生きていけなきゃいけないなあと思って。」

山崎育三郎
「それはお父様が早く亡くなられたというのは、おいくつぐらいだったんですか?」

木村多江
「父が49歳で亡くなったので。私はもう21(歳)ではあったんですけど。
なので、もう(子供には)2歳位からお料理をさせて
本当にこうフライパンのものをこう混ぜさせたり。
だからもう中1くらいの時には、餃子とか自分で作ってとかして」

山崎育三郎
「ちゃんと自立してほしいっていうのが子育てに反映されてるって感じですかね。

そんな多江さんがどんな人生を歩んできたのかというのを紐解きたいと思います」

 

小学校からお嬢様学校に:縛られた小学校時代

ヤンチャだった子供からコミュニケーションが苦手な子に

東京千代田区九段下。多江さんの学生時代と言えばここ

木村多江「あの、小学校1年生からずーっと、ここに学校があって、はい」

少女多江ちゃんはどんな子でした?

木村多江
ヤンチャだったんだけど、この学校に入ったことで結構抑えられて
逆に人とのコミュニケーションがあんまり上手くできない子になってしまっていましたね。」

 

友人が語る当時の木村多江さん「野性味あふれる人」

友人ゆ香さん
「ちょっと今からは想像つかないんですけれども、真っ黒に日焼けして野性味がすごかったです。
なんだか踊ったりとかよくしてました。ふざけてましたので。」

木村多江
「毎日のように連絡し合ってるんですよ。昨日もLINE来て。で、一昨日私LINEして」

友人ゆ香さん
「小学校1年生の時からの付き合いですので。48年?」

同級生のゆ香さんとは、中学時代から共に演劇部に所属。

ゆ香さん
学校がとても厳しかったので、学校の帰りにどこか寄るっていう事が出来なかったんですよね、一切。
例えばお稽古事で違う駅、自分の最寄りの通学路じゃない所に行くときは、ちゃんとそういう届出を学校に出さないといけないぐらい厳しくて。

木村はこうはつらつとしているタイプだったけど、学校のその規則とかすごくその縛られる感じのところはあったので。
もっと伸び伸びとしたかったのかなって言う部分はあったりします」

 

演劇で初めて解放された自分らしさ

山崎育三郎「それなんか押さえつけられてる感覚が自分の中にあったんですか?ずっと」

木村多江
「ありました。本当に朝礼の後に「校長先生の話ムカついたよね!?」って言ってもみんなが「え?何が?」って言われた。「え?あれあれ?私だけ?」みたいな。

みんながあまりそれを感じてないことに、逆にすごい劣等感を感じてました。

「ああ、私だけが違っていてダメな子なんだ」みたいな気分でずっといましたね。」

山崎育三郎「ずっと押し殺してたような感覚ですね自分の」

木村多江
「そうですね。だから演劇をすることで初めて、自分がこう解放されるみたいな。

自分らしくいられて、押さえつけてるものを全部表現するのがお芝居だったりとか」

そんな厳しい規則の中でも、二人は一度だけ学校帰りに寄り道をしたという。

友人ゆ香さん
「なんかこれが中学の時にやった「影法師」っていう演劇だったんですけど、この衣装を買いに、彼女が住んでいる最寄り駅の西友だと思うんですけれども、ちょっとなんかドキドキしながら2人でこの衣装を買いにお買い物に行った記憶があるのが唯一外へのお出かけでしたっていう」

木村多江
「覚えてる覚えてる。これ2人同じ衣装だったんですよ。
で、あの結構学生時代2人似てたので、それ買いに行ってドキドキして」

 

高校卒業後、ミュージカルの専門学校へ

演劇に魅せられ、高校卒業後はミュージカルの専門学校へ。
女優木村多江さん、激動の人生が始まります。

ミュージカル関係の仕事をしていた親戚の影響

山崎育三郎「なんで、ミュージカルだったんですか?」

木村多江
「(周りは)ほぼ全員大学進学なんですけど、中学の時にたまたまえっと、親戚がミュージカルの曲を作曲してて。」

山崎育三郎「親戚がミュージカルの作曲家?」

木村多江
「ああ、そうだったんですね。あと、演劇の監修をやってる親戚もいて
本当にいろんなお芝居を見て、中高育ってったので。

もうそういう事をやりたいっていう気持ちがあって。

まあ、親を説得して。
それでなんとかその専門学校に行かせてもらったんですよね」

 

歌が下手で諦めたミュージカル俳優の道

山崎育三郎
「ミュージカルの専門学校ですよね?ミュージカル俳優っていうのは考えなかったんですか?」

木村多江
「どうもやっぱ私歌下手だなと思って。
歌の上手な方たちを見て、やっぱり私これは無理だと思って」

山崎育三郎
「いやでも今の多江さんにしかできないアプローチの役、ミュージカルもたくさんありますから。
あんだけすごい(ダンスで)動けて、芝居で見せていく歌っていうのもありますから」

木村多江「ミュージカルなのに私だけ歌わないなら、でてもいいかなって(笑)」

山崎育三郎
「探します!」

 

厳しかった父

門限守らないと玄関に仁王立ち

山崎育三郎「結構やっぱ厳しかったんですか?お父さん、お母さんっていうのは」

木村多江「父が厳しかったですね」

山崎育三郎
「(木村多江さんが赤ちゃんのときの父・母と3人で映る写真を見て…)かっこいいじゃない。素敵なもう」

木村多江
「本当に門限守らないと、玄関の前で仁王立ちしているような。昭和のお父さんだったんです」

山崎育三郎
「じゃあ、もう演劇の専門学校行きたいって言った時はお父さんかなり反対されたんじゃないですか?」

木村多江
「もう、ちょっとびっくりしてましたけど。
でも、後から聞いたら、「卒業させたら結婚させる」って言ってたみたい。
祖母には言ってたみたいです。
普通に就職して、結婚だっていう風に

山崎育三郎「もうお芝居はそこまでだっていうのをお父さんのなかで」

木村多江「っていうのを言ってたみたいです」

井桁弘恵「直接は言われてはいないけど…」

木村多江「父は直接何も言わないんですよ。」

山崎育三郎「え、その観に来たりもしなかったんですか当時?」

木村多江
「えっと、学生の時に19歳と20歳の時に2回位
感想も言ってくれないんですよ。

だから怖いですよね。何を考えてるか全然分かんなくて
裏ではそうやって言ってたみたいな」

 

父にかけたストレスへの後悔

山崎育三郎
「でもそこから活躍される前に、21歳でお父様亡くなられたっていうところで。
最後お父さんには私は役者でやっていきたいんだみたいな話はされた?」

木村多江「何にもなく。本当に3月に卒業して、4月に亡くなっちゃったので」

山崎育三郎「そっかー。心配かけてたなって感覚もどこかあったんですか?」

木村多江「そうですね。門限守らないと怒ってるぐらいですから。
でも、ガンガン破ってたんですよね(笑)。そうなんです。」

山崎育三郎「結構、言い返したりもしたんですか?」

木村多江
言い返したりもありましたね。
でもなんかやっぱり、後から考えるとすごくストレスを…突然死だったので。

やっぱりストレスをかけてたのが自分だったんだってことで、父が亡くなったことで、立ち直るまでに10年位かかってしまって。苦しみましたね」

山崎育三郎「自分の責任なんじゃないかなって感じてしまったんですか?」

木村多江
「そうですね。すごく2人(父と母)仲良しだったから。
母を1人にしてしまって、寂しい思いをさせてしまった。
母を傷つけてしまったっていうことも、まあ私の心の傷になっていって」

 

一人暮らし 大変だった下積み時代

続いてやってきたのは、家を出て初めて一人暮らしをした池尻大橋。事務所には所属せず、役者に打ち込んだあの頃。

 

一番苦しい時期 常にモヤモヤ

山崎育三郎「フリーで20代活動していた中で、どういう風に過ごされていたんですか?」

木村多江
「通りすがりAさんみたいな感じで言われて、行ってちょっと芝居して、「はいお疲れさまでした」って名前も覚えてもらえず。
なんかとっても刹那的だなと思って。

この時期がやっぱ一番苦しい時期で。

バイトもたくさんしてたし。
バイト生活をしながら映像やったり。

で、映像やっても自分の芝居に納得がいかないっていう。

常にモヤモヤ モヤモヤ…なんかマグマのようにマグマがどろどろドロドロ…」

 

とにかくお金がない 1週間の残金が100円

日の目を見ることを夢見ていた20代。振り返ってみていかがですか?

木村多江
「いや~、大変でしたね。あの、本当にとにかくお金が無くて

あの、ご飯に塩かけて食べてたりとか。

あと100円位しかなくて、この100円で1週間…10日くらいは過ごさなきゃいけないと思って。
そういう時もありましたね」

 

「良い役者になりたい」との思い 芝居しかできない

山崎育三郎「でもその時のその目標っていうか向かっているのはどこだったんですか?」

木村多江
「「良い役者になりたい」って思ってました。
周りがね、本当に綺麗で、可愛い人たちたくさんいて。

その中にいて、私何できるってお芝居しかできないのに、お芝居下手でどうすんだって。

やっぱ芝居が上手くなるしかないねって」

コンプレックスの塊 嫌いなところばかり

木村多江
「で、コンプレックスの塊だったし。

もう声も嫌い、顔も嫌い、スタイルも嫌い。笑い一つ嫌だった

逆に言うとまあ、じゃあ声が嫌いだから、自分の声を出したときにどういう風に伝わるかっていうのを全部録音して。
色んなパターンで戯曲やってみたり。

あとまあ、目が奥二重でパッチリなりたいと思ったけどなれないから、じゃあこの目でちょっと色っぽくするにはどうしたらいいかとか。

そういうことをね、研究したりとか。

まあ、逆にコンプレックスとかが薄まるためには、お芝居でそのコンプレックスに目がいかないようにしなきゃみたいな。

そういう気持ちもたぶんあったんだと思うんですけど」

 

いつも苦しくて、叫んでいた

悩み、もがき続けた若き日々。この道も忘れられない場所

木村多江
「自転車で良く通ったりしたんだけど、とにかく叫んでた。モヤモヤを。うわーっ!って。

何かいつも苦しい…悔しいっていつも思ってましたね。

その何かどうにも行き場のない気持ち、息ができないような気持ちを叫ぶことで発散してた気がしますね。

池尻って本当に家でも叫んでたし。
家でも「オーッ!」って言ってたし、自転車でも「うわーっ!」って言ってたし。
本当に叫んだ街って感じです、私の(笑)」

 

苦しくて当たり前 自分は幸せになるべきでないという思い

山崎育三郎
「でも、本当にすごい葛藤だったんだろうな。
役者を辞めちゃおうと思う瞬間はなかったんですか?」

木村多江
「うん、なんかどっちかっていうと、幸せになっちゃいけないと思ってたから。

なんか父のことで母を苦しめたり、母がこの先幸せで暮らせたはずを私が奪ってしまったと思ってたから。
なんかやっぱり自分が幸せになっちゃいけない
だから、苦しいことを常にしてなきゃいけないっていう。
どっちかっていうと、科してる感じがすごくありましたね」

 

20代 不幸な役が似合う女優としてブレイク:難しかった感情のコントロール

自分を極限まで追いこんだ経験からか、いつしか日本一不幸な役が似合う女優としてブレイク。

井桁弘恵
「でも、不幸な役ってやってる方も演じてるともう辛いじゃないですか。
それが続くと、私生活もやっぱり辛くならなかったですか?」

木村多江
「そうですね。20代は全くコントロールができなくて
本当に電車の中でうわぁ!って泣き出したりとか。

全く情緒不安定な。

役。役ですね。役のことをずっと考えてるから。」

ずっとコンプレックスだった芝居で栄光を手にする。
日本アカデミー賞で最優秀主演女優賞を受賞。

 

憧れの女性は好奇心にあふれた祖母

好奇心・感謝・ポジティブ・寛容

いい役者になりたいという一途な想い。
それをずっと見守ってくれた人がいた。

井桁弘恵
「多江さんにはずっと憧れてる女性がいるっていう風に伺ったんですけど」

木村多江
「あ~、私のあのもう亡くなってしまったんですけど、102歳の祖母がすごい好奇心が強くて。で、あの本当に努力家で。

で、90歳くらいまで書(道)を習っていたりとか。

もう90代後半かな?SMAPが解散する時も、「多江ちゃん!キムタクに会わないの?ちょっとキムタクに会ったら、何歳のおばあちゃんがファンだって言っといて」みたいな。

すごい好奇心がずーっと続いていて

それでいつもなんか「お陰様でお陰様で…って言って。ありがとありがとっていつも感謝している人で。

でも亡くなってね。いろんな祖母の人生を知ることになったんですけど、もうあまりにも壮絶で、そんな壮絶で苦しんで生きてきた所があるのに、文句をいうんじゃなくてね。

あのすごいポジティブでケラケラケラって笑う人だったので。

こういう風に人に対して寛容で優しくて思いやりがある人になりたいなと思って」

 

祖母と暮らしてきた叔母からの手紙

山崎育三郎
「実は今回ですねおばあさまとずっと一緒に暮らしていたおばさまからお手紙をいただきまして。
お父さんの妹さんですね。
ちょっと代読させていただきます」

おばさんからの手紙の内容
『多江ちゃん、最近はなかなか頑張って仕事をしていますね。

多江ちゃんが、自分のやりたい道を主張したために、パパが心配を募らせて、ストレスをためる原因になった結果、パパを早く死なせてしまったと思い込んでしまって。

自分は幸せになってはいけないと苦しんでいた時期が10年以上続いていたようですね。

でも、その心の葛藤が身体に出ていて、薄幸な役が似合ってしまったのかもしれませんね。

多江ちゃん、パパは多江ちゃんが初めて電車内の吊り広告に顔が載った時、嬉しくて、その広告のぶら下がっている電車に何度も乗り降りしてたことを知っていましたか。

パパは可愛くて、心配で、仕方のない娘を前にして、正面切って反対はしてもその志はちゃんと受け止めて、認めていたのですね。

多江ちゃんが心配することは何もなかったのです。

そして、一昨年103歳を目前にして、天国に旅立ったおばあちゃんは、多江ちゃんのファン第一号を自認していました。

まだ多江ちゃんがそんなにテレビに出ていない頃はテレビの中に多江ちゃんを見つけると、本当にうれしそうな顔をして、「多江ちゃんが出ている、多江ちゃんが出ている」と喜んでいましたっけ。

そんなおばあちゃんは亡くなるまで、多江ちゃんの番組や舞台をみることがどんな薬を飲むよりも元気の素になっていました。

多江ちゃんも「近所に撮影出来て、少し時間ができたから」と言って、おばあちゃんに優しい笑顔で「おばあちゃま」と会いに来てくれましたね。

その時のおばあちゃんの嬉しそうな笑顔は、今も忘れられません。

多江ちゃん、元気で、頑張って!

おばさんが可愛い姪に精いっぱいのエールを送ります。』

 

素敵な人が周りにいることがラッキーなこと

木村多江
「ありがとうございます。ありがとうございます。嬉しいこんなサプライズ。

あの、父も祖母もそうですけど、この叔母も本当に素敵な人で。

あのー何だろう。本当に人を思いやる気持ちが素晴らしくて

その私の失敗とかをまるで失敗じゃなかったことのように言ってくれたりとか。

祖母も素敵だし、この叔母も素敵だし。

本当にこういう私にとって目指す人がいるっていうことが、私にはラッキーなことだなと思って。

自分の中でゆとりを持っていたいし、人に感謝して、寛容で優しくて思いやりがある人になりたいなと」

タイトルとURLをコピーしました