山崎育三郎 「今日のこの(服装の)スタイルっていうのは?」
いとうあさこ
「あらごめんください。聞いてくださいます?
わたしずっと今までの人生で、ちょっとこうドラマとか映画とか漫画とか。
色んな人格に影響される時期っていうのが。
いつも違う人間で生きてきた空気があって。
これは「Tomoko Yamaguchi」(笑顔)。
やっぱ「ロンバケ」含め、さっぱりした自然。
とにかく自然でやりたいなっていうので、ちょっと山口智子さんが一番に思い浮かんだんで」
いとうあさこさん(54歳)芸歴27年
2023年一番好きな女性バラエティータレント1位。
小学校から都内屈指の名門 雙葉学園へ通う真面目な少女だったのだが…。
19歳の時、突然の家出。
27歳の時芸人デビュー。
電波少年の企画「15少女漂流記」で超過酷な無人島生活を行いブレイクすると思いきや…
およそ約10年 鳴かず飛ばず!
30代後半の時 ようやく生み出したのが…
「みなさん、こんにちは。浅倉南38歳です」という明るい自虐ネタで遅咲きのブレイク。
いとうあさこさんの人生は寄り道だらけ。
様々なものに影響され、紆余曲折。
いとうあさこさんプロフィール
1970年(昭和45年)6月10日生まれ(放送日現在54歳)
本名 伊藤麻子
東京都渋谷区出身 AB型
マセキ芸能者所属
雙葉小学校、雙葉中学校・高等学校卒業
舞台芸術学院ミュージカル別科
実家が資産家
父は銀行家の伊藤新造さん
兄と妹がいる。
兄は東京大学法学部卒業、野村証券勤務
(以上Wikipediaより)
電波少年に出演「過酷な無人島生活」(30歳)
山崎育三郎「電波少年でどうにかって思いもありました?」
いとうあさこ「だから、電波少年って分かった時、正直後ろで「よしっ!」ってなりますよね」
山崎育三郎「それどの時点で聞くんですか?」
いとうあさこ
「「朝の番組のオーディション」って聞いて。
行ったらそのまま扉を閉められた感じです(笑)
年越しのさいたまアリーナでライブをやって、「間違えなければいいけど、間違えたらとんでもないことが起こるぞ」って土屋さん(電波少年の有名プロデューサー)に言われてた」
山崎育三郎「それで失敗して…」
いとうあさこ
「失敗したら、なんか網が落ちてきて。
誰も立ち上がれないくらい重い網なんです。あれ、何?っていう。
そのまま吊るされて。で、トラックで。今なら絶対ダメですけど。
で、あの無人島です」
電波少年「15少女漂流記」出演当時、いとうあさこさん30歳。
無人島から自分たちでいかだを作り、それを使って無人島から脱出し、近くの浜に到着するという企画。
食料も自分たちで無人島で探して食べる。
若いメンバーが多い中、率先してあさこさんが仕切っていました。
無人島から浜に到着した時には7人がリタイアし、8人でゴール。
いとうあさこ
「ずば抜けた最年長だったんです。1人だけ。
木を集めてきて、ヒモもないから。
(VTRに映っているいかだ)これはもう3台目です。
1台目は切れちゃって。2台目は嵐で流されて。
一生忘れない。
あと、私1人だけ海に潜れたので。
満月の夜、光がないじゃないですか。
月明かりの海に映る線のところに魚がすごい集まってくるんですよ。
だから、ちょっと暗いところからこうやって泳いでって、その月明かりの所をバタフライみたいにこうやって泳ぐと、小魚がおっぱいの間に入ってくれて(笑)」
子供の頃の夢…その時によって色々憧れ「芸能界やスケート選手など」(幼少期)
山崎育三郎「子供の頃は何になりたかったんですか?好きなものとか」
いとうあさこ
「ま、ほんとそれも色んなあさこがいたもんで。
あの、ピンク・レディーの頃はやっぱアイドル。
アイドルっていうか芸能界っていうものが。
なれるわけないけど、憧れてはいたりはしたんですけど。
スケート習ってる時は、そのまま選手になり…」
山崎育三郎「スケート習ってたんですか?」
いとうあさこ
「なんか近所にスケート場があって。
こうこう(滑って)、「伊藤みどりさんになりたい」みたいな。
あと、まあ伊東四朗さんとかいかりや長介さんが小っちゃい頃から好きだった。
喜劇面白いなと思ってたのはどっかあったんですけど」
突然の家出「やりたいことはなく、ただ出たかった」(19歳)
3畳一間で7万円
井桁「出て何をしたいっていうのが何かあったんですか?」
いとうあさこ「何もないです。出たいっていう」
山崎育三郎「どこ行ったんですか?」
いとうあさこ
「中落合。中井って駅なんですけど、3畳一間で、本当に狭くて。
えっとね。もうこうやって「大」ってしたら(手と足を大の字に広げたら)、全部の壁触れます。で、ここ(頭)ついてます。
トイレがこの辺(左足のところ)にあります。お風呂も。
3畳のフリして、7万円だったんです。
だからもう、悪徳アパートなんですけど」
お金が無くて、夢より一人暮らしを成立させることで精一杯
(中井駅の街歩き映像)
いとうあさこ
「中井駅から15分位歩いた所かな。もう本当にお金がなくて。
だからとにかく引っ越したばっかりで、どうやったら電気代が払えるかとか、何がいくらかかるかとかも分からなくて。
とにかくがむしゃらに、夢とかいうんじゃなくて、一人暮らしを成立させようっていう。
あ、(スーパーマーケット)Olympic!
あのね、Olympicでこの当時、あのめちゃくちゃお世話になってて。
当時まだ消費税がなかったんで、1週間に1回か2週間に1回、ここで大きいアジフライを100円で買って。
あとはもうお米にちょっとケチャップ、スプーン1杯とかで色付けて食べてたんで。
目白通りにある八百屋さんとお肉屋さんと乾物屋さん。
もうほぼお米しか食べられないのの味変をなんとか。
鶏肉もも何十円かで100gだけ買って。
八百屋さんもキャベツのおっきいのとかがあってとか。
めっちゃお世話になりました」
演劇の専門学校→ミュージカルの世界へ(24歳)
井桁「その時芸能活動はまだ?」
いとうあさこ
「もちろん、全然あとです。
たぶん24(歳)くらいで、1回なんか舞台に憧れていて、夜学の専門学校に。演劇の。
演劇をやりたかったんですけど。
え…?こんな私の話ずっとしてていいんですか?私の人生なんて誰も聴きたくないのにと思って。
演劇科だと、やっぱ座学が結構あるんですよ。その演劇史とか演劇論とか。
そんなことやってる暇とお金がなかったんですよ。
全部実技をやりたくて。
ミュージカルの方だと全部実技なんですよ。
じゃあ、こっちだと思って行ったら、またそんなんで影響されやすいあさこさんは、「ミュージカル楽しいやん!」ってなりまして。
で、1回だけ劇団四季のあの書類が通って。
でも、それはなんか当時なんか噂があって。
うわっと履歴書まいて、浅利先生が拾った人が書類通るんだって噂があったんです。
要はね、運をそれで見るっていうか。
とても太刀打ちできる正解じゃないなというのはもちろん分かっていながら、しばらくダンスをやってましたけどね」
山崎育三郎「ミュージカルやってたときは、どのあたりに住んでたんですか?」
いとうあさこ
「池袋が学校だったんですよ。
2駅手前の豊島区の千川っていうとこに住んでました。
10年位暮らしてたんですよ。
(住んでたアパートの)大家さんがなにせ良いんですよ。
貧しい私の面倒をよくお世話をしてくださって。
その、柿が届いたからとかもおすそ分けして」
出演したミュージカルで思い出した「笑いの世界」→お笑いコンビ結成(27歳)
ファミリーミュージカルに合格・出演が芸人のきっかけに
山崎育三郎「その時もうミュージカルも辞めてこうかなっていうところに?」
いとうあさこ
「いや、それがなんか1回ファミリーミュージカルに合格して。
ハイジのロッテンマイヤー先生っていう意地悪な先生がいて、その役で合格して。
ま、ハイジを、主役を要はイジメるわけですよ。
だけどそこはなんか演出家の方が、もうなんか知らないけど「いとうさんアドリブでどうぞ」みたいな空気だったんで。
初めて、今思えばそれがネタ帳と呼ぶなら、何かノートを買って、毎日違うイジリをハイジにしてやろうと思って。
ウケない日もあるけど、結構ウケたこともあったんですよ。
あ、そうじゃんつって。
私喜劇というか笑いの国が好きだったのをその急に幸福感を覚えて思い出すんですよ。
で、その時が26…もう27(歳)になるって時で。
ミュージカルの専門学校の同期の子とコンビを組んで。
で、2003年にコンビ解散かな?」
お世話になったカンニング竹山さんの影響
井桁「当時よく行ってたお店とかってあるんですか?」
いとうあさこ
「あのねーハンバーグ屋さん。
よく行ってたジェロニモっていうハンバーグ屋さんがあって(ジェロニモ東中野店)。
で、(カンニング)竹山さんも近くに住んでらして、よーく行ってました。
もう、若手のお金ない時なんか、(カンニング)竹山さん家でどんだけご飯頂いたかっていう。
笑いに対して向かう向きとかがすごいかっこよくて。
そういうのなんか勝手に見てた感じです。
なんかすごくカンニングさんに影響を受けてるところが大きいかもしれない。
アニメタッチ 浅倉南で大ブレイク(38歳頃)
あさこが全国的にその名を知らしめたネタと言えば、浅倉南。
しかしそこには様々な葛藤があったそう。
いとうあさこ
「「浅倉南40歳とか39歳!」とかでちょっとテレビに少し出させていただき出したときに、「南ちゃんの格好で出てください」ってなるじゃないですか、もちろん。
で、普通の特番で、みんなおしゃれに座って話すときに、別にモノマネじゃないので。
それに南ちゃんに寄せたコメントもしてなかったんですよ、別に。
だから「普通に出たいです」って言って。
それで結構「じゃあおもしろいこと言ってくれるんですね」みたいな空気になることがよくあったんですよ。
日々グッと戦ってる感じはあって。
踏ん張ってたのはあるかもしんないですね。
人生変えた「世界の果てまでイッテQ」の影響力(40歳)
イッテQで多くの人の反応が!
山崎育三郎「そもそも「イッテQ!」というのはどういう感じ」
いとうあさこ
「ああ、もうそれは相当大きいです。
なんか本当にバラエティーなんですけど、なんか一生懸命やってるものを見てもらって。
すごいしんどい事とかもちろんあるけど、見てくださった方の反応が山ほど来て。
ただの普通のおばさんだった人間が、イッテQのおかげですね、もう。
デカすぎるかも。
演者とディレクター陣、技術、カメラさんとかが全員同じ方向向いててびっくりしたんです。
ドキュメンタリーのような。
今年はいってからかな。
1回内村(光良)さんにスタジオで、
「もうお前の場合は、ネタで笑ってるんじゃない。生き様で笑ってるんだ」
みたいなこと言われて、また喜んじゃって。
じゃあ、頑張ろうなんて言って」
2010年 人生を変えた放送 「世界まるごとレンジでチン!」
いとうあさこさんの人生を変えた放送。
それは、2010年10月放送の「世界の果てまでイッテQ!」。
「世界まるごとレンジでチン!」という挑戦。
自分で山奥に入り、食材をとり、電子レンジで調理して食べるという企画。
大きな電子レンジを背負ってジャングルへ入り、赤ありの巣と戦ったり、レンジを背負ったまま洞窟を探検した。
洞窟のなかでは竹のはしごを登って、ツバメの巣をとり、ゲットした食材を電子レンジで調理して食べるという過酷なロケでした。
VTR見ながら…
いとうあさこ
「1回きりで終わった企画です。
だから、もう2度と呼ばれないのかなと思ったんです、その後。
こん時ね、人生最後のダイエットやったばっかりなんで、痩せてるんです。
「ここ(竹のはしごのあしをかけるところ)を持って登らないでください」って言われたから「WHY?」と。
「え?足を引っかけるべきところになぜ持ってはいけないのか」。
「いや、とにかく持たないでくれ」って言われて。
で、筒持って、足で上がって」
VTR後…
いとうあさこ
「結局そのあと、「ミステリーツアー」っていう自分の今も続いてるコーナーが始まって。
で、「温泉同好会」が当時森三中がやってたコーナーにあさこも入るかみたいになって」
山崎育三郎「でも、あれがきっかけでってことですもんね」
いとうあさこ「きっかけですね」
劇団にも所属し、舞台に立ち続ける
劇団で舞台に立つのは特別
山崎育三郎
「今忙しいじゃないですか。バラエティー、テレビだけでも。ものすごい。
それでも、その年に1回自分の舞台やったり、劇団で板の上でやるっていうのはどういう思いがあるんですか?」
いとうあさこ「特別かもしれないですよね」
山崎育三郎「どんだけ忙しくても、そこは立ち続ける?」
いとうあさこ
「うん。あの、立たせていただけるならね。こっちのあれじゃないですもんね」
山崎育三郎
「いやでも、やっぱりお客さんの前が好きなんですね。自分のベースになってる」
いとうあさこ「好きかも」
劇団の主宰 山田能龍さん(脚本家・代表作「全裸監督」)にインタビュー
どん底だったあさこさんに声をかけた。面白いヤツだから
井桁
「今回、あさこさんが最も信頼を寄せると言ってもいいこの方に、お話を伺って来ました」
あさこさんが所属する劇団「山田ジャパン」の主宰であり、「全裸監督」など数々のヒット作を手掛ける脚本家山田能龍(よしたつ)さん。
山田
「僕が出会ったのは、全然もちろん売れてなくて。
まあ、僕が昔あの本当にしがないお笑い芸人をやってまして。
僕が芸人を辞めるんですよ。
ちょうどその頃僕が演劇に魅せられたのもあって。
「ああ、これもうお笑い無理だ。才能ないわ」と思って辞めて。
そっから5~6年会ってないです。
「自分の劇団をやる」っていう風な流れになったんですよ。
自分、要するに独立した方がいいんじゃないか。
そん時に、あさこがちょっと前にどん底だったんですよね。
ちょうどあさこもやることがなくて。
で、久しぶりに新宿のFu-にマセキ芸能者のライブを観に行くんですよね。
あさこなんて、また面白いやつじゃないですか。
で、劇団にあさこがいたらメンツとしてすげぇいいなと思って入ってほしくて。
で、居酒屋行って「じゃあ一緒に(劇団)やろうよ」って言って再会したって感じです」
スタジオで…
いとうあさこ
「お笑いの舞台はやってるけど、お芝居もやりたいなって言ったタイミングがドンピシャだったんでもう運命だと思ってますけど。
劇団も最初はやっぱりめちゃくちゃ小さくて(2008年旗揚げ)。
よしたつさんもまだもう私と一緒でまだ全然世に出てなかったから。
本多(劇場)見ながら「いつかここでやるようになるのかな」なんて言って」
意にそぐわないことは絶対にNOと言う人
スタッフ「ケンカしたりとかはしたことあります?」
山田
「えーと、あります。あいつはなんていうんだろう。
意にそぐわないことは絶対にNOって言う。
絶対に信念を曲げないっていう人なんですよね。
やっぱりそのことがぶつかったことがあって。
その時につい僕が
「あさこの言ってるそのなんかそのプライドとか大事にしてる芸道ってちょっと安いんじゃないの?」
みたいなこと言っちゃって。
もちろんあさこはその時もうスーパースターになってたんで、忙しいじゃないですか。
「劇団の運営とかは僕や劇団員でやってる」と。
「っていうか、普段お前がやってなくて、こっちがこんだけやってる。
リスペクトがお前足りないだろ」
みたいなことを言っちゃったんですよね。メールでね。
そしたら一気にあさこがなんか
「やっぱりそう思われてたんですね。とても悲しいです」
みたいなメールが来て。
そのことはなんか、ちゃんと俺が謝れてないような気がしてますけど」
明確な仲直りはなかったといいいますが、そのの後時間が解決し、今ではあさこさんが劇団の経理も担当。
率先して舞台の片づけを行うなど、テレビでの忙しさを言い訳にせず、裏方としても劇団にとって欠かせない存在になっているといいます。
いとうあさこさんへメッセージ
山田
「さすがにこういうモードで、喋りはしないんで。
逆にせっかくなんで、この機会に。
『あさこがずっとすごい活躍してるから、僕もなんかあさこに引けを取らない自分でいようみたいなつもりで普段から仕事を頑張ってたりはします。
今はあさこにとってもウチの劇団が意味あることだっていう自信がなんか僕もそう思えるようになったんで。
やれる限り続けたいと思ってるんで、今後ともよろしくお願いします』」
スタジオで…
いとうあさこ
「よろしくおねがいします!こちらがよろしくお願いします!
いや、本当に。本当におんぶに抱っこというか、昔から旧知の仲すぎて。
よしたつさんが書いてる文字とか台詞がすごい好きで、ずっとハマって。
仲間であるけど、尊敬もしてて。ずっと山田ジャパンにいる。
いるっていうか、いさせてもらってるというか。はい」
人生訓:目標は「生きる」こと。「一生懸命生きることは超大変」
山崎育三郎「ベースとなるモチベーションとかって何なんですか?」
いとうあさこ
「私その質問が昔から分からなくて。
で、何回説明聞いてもわからないんですよ。
モチベーションってなんですかって(笑)」
井桁「何のために生きてる?」と言われたらなんて答えますか?」
いとうあさこ
「よく「今年の目標」とか誕生日迎えた目標何ですか?って、私ずっと「生きる」っていう言葉を使ってるんですけど。
一生懸命生きるって超大変じゃないですか。難しいから。
一生懸命やんないとついてけないんで。
もちろん、あのー信念はあって、自分に反したことはしないですけど。
「正直に」ってことですかね。
まあ、好奇心だけ無くさないと良いなっていう。
私結構カーテンコールで泣いちゃうこと多くて。
お辞儀の仕方とかお客さんの拍手とか。
あれが答え合わせじゃないですか。
あれで私しょっちゅう泣いちゃう。人の舞台」